第02話:父母
「……あの子は、なんなのでしょう…。」
母——土田御前の声が、廊下から聞こえてくる。
乳母と話しているのだろうか…?
俺は隣の部屋で、じっとその声に耳を澄ませた。
「あの子の目つき…。まるで父上を見ているかのよう。赤子にはとても見えません。」
「そうであるな。まるで、老練な大人の目をしておる」
父がそう答えた
(親父と話しているのか…。しっかし、そりゃそうだ。こちとら既に50過ぎ。いや、もう60近いのか…)
しかし、それを彼らに言ってやることはできない。
こんな時代では、狐憑きとして放逐されるだけだろうから。
(親父は受け入れてくれちゃいるが、騒ぎになればそれも無理だろう。)
この時代は、当主の地位は絶対じゃない。
大名とは言っても、国人領主たちに支えられて存続しているだけの不安定なものだ。
「本当に、気味が悪い」
母の声に、嫌悪が混じる。
「わたくしの子なのに……わたしが胎を痛めて産んだ子なのに…」
胸が、ちくりと痛んだ。
あの若い母に嫌われている。
それは、この一年——いや、記憶が曖昧だった時期も含めて、ずっと感じていたことだった。
抱き上げられるときの、ぎこちなさ。
授乳のときの、冷たい空気。
他の子供を見るときとは、明らかに違う目。
(……そりゃ仕方ない。こんなおっさんをあの若い彼女が産んだんだからな…)
客観的に見て、自分でも異常だと思う。
記憶が戻ってからというもの、俺は極力、幼児らしく振る舞おうとした。
泣いたり、
笑ったり、
無邪気に遊んだり。
だが、どうしても目だけは、誤魔化せなかった。
五十年生きたおっさんの目。
それが、三歳児の顔に宿っている。
不気味に決まっている。
(この歳になって、必死に幼児プレイなんてしてるのに……。
これ、かなり心に来るんだぞ…?)
「……でも、殿は」
「あの子は、いい武士になるだろう。
だからそう気に病むな。あれは特別優れた子なのだ。
頼むから、そう気に病んでくれるな…」
「……それは…、そう、いたします。」
母の声が、少し沈む。
(50過ぎのおっさんが、必死になって幼児プレイした末路がこれ、か…。泣ける…)
俺は、五百年後の未来から来た異物だ。
織田信長という器に、斎藤恋という魂が宿っているだけの。
「吉法師!」
威勢のいい声とともに、父——織田信秀が部屋に入ってきた。
「ちちうえー」
俺は、まだおぼつかない足取りで、信秀の前に歩いて行った
「おお!もう歩けるのか!しっかりしておるなー」
信秀は、俺を抱き上げる。
大きな手
たくましい腕
現役の戦国武将の身体だ。
「ほぉ…よい目をしておる。この子は、きっと大きなことをなすぞ!」
「……あい」
返事をするのが、精一杯だった。
喉が、まだ上手く言葉を紡げない。
「強くなれよ」
信秀は、真剣な顔でそう言った。
「強く、賢く育て。わかったな」
「……あー」
(いや、赤ん坊に何言ってんだ?バカなのかそれとも、俺がおっさんだってバレてんのか?いや確かに、母親にも不気味って言われるほどだし、親父にもそう思われてんのかー?!)
期待の重さが、ずしりと肩にのしかかる。
俺は、史実の織田信長に思いを馳せる。
天下布武を目指した男
日本の戦国時代を終わらせた男
その名を継ぐことの重さ。
(……俺に、できるのか……?)
不安しかない。
織田信長の人生は苦難の連続だ。
いや、戦国大名の人生そのものが苦難だろう。
しかし、ただの農民であればもっと苦労するかもしれない。
五十年生きたとはいえ、俺はただの中年のおっさんだ。
小説を読むのが好きで、歴史に興味があって、
北海道で一人暮らしをしていただけの。
ただの、平凡な
それが今や戦国時代の寵児
織田家の跡取りとして、生きている。
(……とりあえず、生きることだけ考えよ。それ以外だと、信勝、かぁ…。最初の脅威だよな。
その次は今川っていうさらに大きな脅威が待ってるってのに…)
本能寺の変は、まだ遠い未来。
だが、それまでにも、無数の戦いが待っている。
歴史を知っているという、
たった一つのアドバンテージ
それだけで俺はこの時代を
生き抜かなければならなかった。




