帰郷の町
久しぶりに降り立った小さな駅は、思ったよりも静かだった。
人の波に揉まれる都会の喧騒から遠く離れ、ここはまるで時間が止まってしまったかのように感じた。
改札を抜けると、かすかな冷たい風が肌を刺した。
春先の風はまだ冷たく、頬を撫でるたびに季節の移ろいを教えてくれる。
駅前の商店街はシャッターを閉じたままの店が目立つ。
一歩踏み込むと、昔馴染みの風景とはどこか違う。
通りの隅に積まれた段ボール箱や、色褪せた看板が寂しげに揺れていた。
「帰ってきたんだね」
声がした方を向くと、薄紫の和服を纏った老女が立っていた。
町の旅館の女将らしいその人は、柔らかい笑みを浮かべていたが、瞳の奥にはどこか陰があった。
「ええ……久しぶりです」
言葉に詰まりながらも、俺はそう答えた。
兄が消えたこの町。
何年も前から、答えのない問いを抱えたまま、俺はここに戻ってきたのだ。
女将はゆっくりと首を傾げ、こちらをじっと見つめた。
「町は変わったわよ。昔のようにはいかない。けれど、水だけは変わらずに流れている……」
言葉の意味を確かめる間もなく、彼女は奥へと戻っていった。
俺は再び歩き始めた。
見覚えのある細い路地、朽ちかけた木造の家々、どこか湿った空気が鼻腔をくすぐる。
夜が近づくと、どこからともなく微かな水音が聞こえてきた。
耳を澄ますと、それはまるで誰かが遠くで泣いているようにも感じられた。
胸の奥がひりりと痛む。
この町に、そして水の中に、まだ消えていない何かがある――。
駅から歩くこと20分ほど、
古びた木造の家々が軒を連ねる住宅街に入った。
日が傾きかけた空はどこか曇っていて、
夕暮れの薄明かりは、街の隅々まで届いていないように感じられた。
通りを行き交う人々は、どこか表情が硬く、
目を合わせようともしなかった。
「お帰りなさい」
誰かが背後から声をかけた。
振り返ると、町の郵便局員だった。
「久しぶりだな」
彼もまたどこか疲れた様子で、
無理に笑みを浮かべていたが、言葉には温かみがなかった。
俺はただうなずき、軽く会釈を返す。
郵便局員は言葉少なに、
「変わったことがあったら教えてくれよ」
そう告げて、足早に去っていった。
俺は町の住人たちの口数の少なさに改めて驚いた。
誰もが何かを隠しているような、
見えない壁がそこにあるようだった。
歩いているうちに、俺はふと、古い神社の鳥居の前に立った。
赤く塗られた鳥居はところどころ剥げ落ち、
苔むした石段が薄暗い森の中へ続いている。
近づくと、そこからかすかに水の音が聞こえた。
澄んだ流れのような、それでいてどこか冷たい響き。
辺りを見回すと、誰もいない。
でも確かに、あの音は存在していた。
心臓が高鳴り、足がすくむ。
「……違和感があるんだよなこの音」
そう思った瞬間、背後から風が吹き、鳥居の鈴が軽やかに鳴った。
俺は振り返らずにその場を離れた。
夜が深まると、町はさらに静まり返り、
微かな水音がますます近づいてくるように感じられた。
そして、俺は眠れなかった。
夢の中で、兄の声が聞こえた気がした。
「ここにいる……」
けれど、俺が手を伸ばすと、
その声は水の底へと沈んでいった。
翌日、町の図書館に向かった。
目的は、兄の失踪に関する記録や町の歴史を調べるためだ。
小さな町の図書館は静かで、古い木の香りが漂っていた。
司書の女性は無愛想で、質問にも必要最小限の返答しかしなかった。
それでも俺は、古い新聞記事や町史のページを繰りながら、
兄の名前が記された記事を探し続けた。
何度も同じページを見返すうちに、
ある奇妙な記述に目が留まった。
それは数十年前の水難事故についての報道で、
村の伝統的な水の祭りの最中に起きた惨事が記されていた。
事故の犠牲者の名前の中に、主人公の祖父の名前もあった。
祭りとは一体何なのか。
疑問を胸に、町を歩き回るうちに、
いつの間にか夕暮れ時になっていた。
再び、遠くから微かな水音が聞こえてくる。
その音はまるで、町の底から静かに忍び寄るようで、
俺の背筋を凍らせた。
ふと、路地裏で倒れている老人を見つけた。
「大丈夫……ですか?」
声をかけると、老人はゆっくりと目を開け、かすれた声で答えた。
「水は、忘れちゃいけねぇ……」
何を言っているのか理解できなかったが、
その目の奥には強い悲しみが宿っていた。
俺は老人の手を取り、立ち上がらせた。
「教えてください。何が起きているんだ、この町で」
しかし老人はただ呟くばかりだった。
「もう遅いんだ……」
老人の言葉が頭の中でこだました。
「もう遅いんだ……」
その重みを受け止めきれず、俺はしばらくその場に立ち尽くした。
夕暮れの空はすっかり暮れ、町は薄闇に包まれていく。
足早に歩き出すと、遠くからまたあの水音が聞こえた。
しかし今度は、それがただの水の流れではないことを直感した。
その音は、まるで誰かが呼んでいるようで、誘われているような気がした。
俺は無意識にその方向へ向かい、
細い路地を抜けて、やがて古びた神社の裏手にたどり着いた。
そこには小さな池があり、静かに水面が揺れていた。
闇の中、揺らめく水面に何かが映った気がした。
慌てて目を凝らすが、そこには何もない。
けれど確かに、何かがいる。
心臓が激しく鼓動し、冷たい汗が背中を伝う。
その瞬間、水面が波打ち、まるで手招きするように揺れた。
「……帰ってきて」
囁くような声が聞こえた気がした。
俺はその場から逃げ出すように走った。
背後からは水音が、追いかけてくるように迫っていた。
家に戻ると、部屋の隅に置いてあった兄の写真に目が留まった。
笑顔の兄は、確かにこの町にいた。
だが、今はもういない。
俺は決めた。
真実を掴むまでは、この町から逃げ出さない。
水の底に沈む何かを見つけるまでは――。
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