八分の一斤の食パン
琴子は二三度目をしばたたくと共に眼鏡をつまんではずし、パソコンの前から立ち上がってそのまま台所へ向かいかけたそばから、ふと首をかしげて立ち止まった。つい今し方何かの用で腰を上げたばかりのはずがもう忘れている。
仕方がないので椅子へもどり、再び腰をおろしながら背もたれに身をあずけるまま腕を後ろへ思い切り伸ばすと、足先をぴんとしてぶらぶらしたのち、お気に入りの眼鏡をかけて頬杖をつくままにぼんやりしだしたところで、ふっと思い出した。
思い出したのは先刻の用事ではなくそろそろ食パンが切れそうなことで、琴子は近頃駅近のパン屋で買うことにしている一斤のパンを自ら台所に立って八枚切りにし毎日二枚ずつ、つまり八分の二斤ずつ食べているのであるが、一枚ずつラップに分けてつつむのは面倒だけれども浮き浮きもするので、つつんだ上からさらにジッパーの付いたポリ袋できゅっと締めて冷凍庫で保存している残りが、不思議なことにお昼には気にもしなかったのに、今になって一枚になっていたのに心づいた。
すぐにでも立ち上がって冷蔵庫へ行き、冷凍室をあけて事実を再度たしかめるのは容易いけれど、そうはしたくないので、琴子は頬杖をとくままに中指を唇にあてると、ひんやりして心地よい。
残りが八分の一斤だということは三日前にパン屋へ寄ったはずで、琴子はその時のさまを思い返してみようとしたものの、茶色の衛生帽をかぶった自分と同い年くらいのお姉さんの姿がぼんやり浮かぶだけで、果たしてそれが事実三日前の情景なのか、それともいつもの印象をかさね合わせているだけなのか自分でもわからない。
それはいいとしても、どうも三日前ではない気がした矢先、ぴんと脳裏に蘇ってきたのは、一昨日仕事帰りに彼氏が急に家へやって来た時、琴子は昨日の残りと買ったばかりの食パン二枚で夕飯をすませたばかりだったので、彼のためにつくってあげるのが億劫だったところから、ふと思いつくままに冷凍庫から食パンを取りだしてオーブントースターへのせ、焼き上がったのち甘党な彼のためにブルーベリージャムを塗ってあげた。
パクパクと頬張るさまが微笑ましくて、もう一枚焼いてあげた。これなら計算も合う。
こんなふうに自分が計算にさとい、というより割り算と引き算にさといのは、きっと日常のことで掛け算や足し算をしても全然楽しくないからで、もちろん貯金はしてはいるけれど、増える見込みのない月給を足し合わせたり、それへ年月を掛け合わせたりして何の楽しいことがあろう。そんな代わり映えもしないことよりも手元の金額をいろいろと振り分けてみたり、その割合に頭を悩ませるほうが余程楽しい。
琴子はこの頃そう思う度に、学生の頃は掛け算の気軽さに比べてちょっぴり疎ましかったはずの割り算が社会人になってみると、身に染みて身近に感じるのを不思議に思いもすれば、割り算なしの生活は考えられないことに心づいて、数学の尊さを今更ながら実感するのである。
──けれど数学っていうより算数かな? でも微分だって結局ただの割り算なわけだし。あながち間違ってないな。うん。一斤のパンを微分するように無限に細かく分けて切れば、際限なく切れるわけだし。それを積分すると一斤のパンに戻っちゃうけど。
ふっと可笑しくなって思わず微笑んだ折から、琴子はぴんと思い出した。
そろそろ来るはずの彼と一緒にスーパーへ買い物に行く予定を立てていたのだ。寒いからお鍋にするのである。何を買うべきかリストアップしなければいけない。そう思い立つままに先刻は立ち上がったのであるが、もういい気がした。
冷蔵庫の中身はたしかめなくても分かっているし、それに二人で決めるのがいい。彼に決めてほしくもある。一緒にパンも買いに行きたいな。
──着替えないと。
琴子はそう心づくままに眼鏡をはずしながら三面鏡へ寄って髪をとかし、コンタクトレンズをつけて軽く化粧をしたのち着替えをすませると、暖房していない初冬の部屋の中で手をこすりあわせて、ふうっと息を吹きかけた。
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