新婚生活②
やがて、母が入籍日用に準備したピンクのツーピースの入学式の母親のような服に着替えて退院の準備が出来た頃、誠也さんが時間通りに迎えにきた。
誠也さんはいつも約束の時間ぴったりに現れる。
結婚準備の話し合いで、喫茶店で待ち合わせた時も、ホテルのロビーで紹介された時も、時報のようにぴったり現れた。
仕事は出来る人なのかもしれないが、そんなところもつまらなかった。
竜司さんは、一時間も遅れてきて、どこかで事故でも遭ったんじゃないかとはらはらさせられたり、ずいぶん早めに来て背後から驚かせたり、いつもワクワクさせてくれる人だった。
(つまんない人……)
相変わらずの七三分けに銀縁のメガネ、紺のスーツを堅苦しく着ている誠也さんに心の中でため息をついた。
「持ちましょう」
ピンクのスーツを褒めるわけでもなく、花嫁を迎えることを喜ぶでもなく、相変わらず感情の見えない顔で、ひょいとボストンバッグを持ってくれた。
「……」
確かに非はない。
重い荷物をすすんで持ってくれたのだから、ありがとうの一言ぐらい言うべきなのかもしれない。でも言いたくなかった。
弱みを見せたら負けだとでも思っていたのかもしれない。
これから婚姻届を出しにいく無言のカップルを、母は不安そうに見ながら病院の駐車場までついて来た。
「じゃあ私はここで別れるけど、何かあったら連絡ちょうだいね、香百合」
「お義母さんも良かったら家までお送りしますよ。それから役所に行っても間に合いますから」
立ち去ろうとする母を誠也さんが呼び止めた。
きっと母が断ることを分かっていて言っているのだろう。
そんな計算までが見えるような気がした。
「いえ、私は駅前で買い物をして帰りますので大丈夫です。ありがとうございます」
母は予想通り断った。
本当は遠慮せずに、一緒に車に乗って欲しかった。
そして何か予想もできない事態になって、この結婚が取りやめになればいいのにと心のどこかで切望していた。
一分一秒でも先送りしたい。
その反面、地獄行きを逃れるために耐えなければならないという決意もあった。
「じゃあ駅まででも送りましょうか?」
「いえ、のんびり歩いて帰りたいので、大丈夫です」
誠也さんは二回断られたら引き下がる。
なにかマニュアルでもあるのだろうかという会話をする人だ。だから案の定……。
「では僕達は予定通りこのまま役所に婚姻届を出しに行きます」
深く挨拶をして運転席に乗り込んだ。
私も仕方なく助手席に乗り込み、窓を下げて母を見つめた。
「お母さん……」
死後裁判で言ったように、人身御供に出される気分だった。
泣くまいと思っても涙が溢れる。
「香百合……」
母も泣いていた。
これが式場での別れの挨拶なら感動的なのだろうが、病院の駐車場での別れは想像していた以上に侘しいものだった。
「どうか……誠也さん……香百合のことをお願いします。どうか……」
母は涙を流したまま、運転席の誠也さんに深く深く頭を下げた。
「……」
誠也さんは少し戸惑った顔をして、ぺこりと頭を下げるとエンジンをかけた。
そして頭を下げたままの母を残して、車は発進した。
私は助手席から顔を出して、遠ざかる母を見ていた。
できることならこのまま車から飛び降りて母のところに戻りたい。
しかしそんな私の感傷は、誠也さんの一言で消え去った。
「香百合さん。危ないので窓から顔は出さないで下さい」
この男の心はきっと鋼鉄で出来ているに違いない。
この男と結婚するぐらいなら地獄の方がましなんじゃないかと思いながら、私は窓を閉めて助手席に体を沈めた。