新婚生活①
「荷物は本当にこれだけでいいの?」
母は手提げのボストンバッグを持って不安そうに尋ねた。
二日後、私は簡単な手荷物を持って退院することになった。
もともと婚姻届を出す日に身一つで誠也さんの家に行けるように、簡単な引越しパックで荷物は送っていた。
自殺するつもりだったのだから、怪しまれないために必要最低限のものを箱詰めしただけのものだ。死んだ後、実家に突っ返されようが処分されようがどっちでもいいようなものばかりだ。大事な物は全部実家に置いたままだ。
それは今回も変わらない。
一ヶ月暮らすだけの場所だ。長期の旅行ぐらいの荷物で充分だった。
ただ、滞在ゼロ日のつもりが一ヶ月に伸びたのは大きい。一ヶ月ぶんの服や化粧品は実家の部屋から持ってきてもらった。
「ねえ結婚するにしても、やっぱりもう少し落ち着いてから、それなりのこしらえをして内輪でもいいから式をあげてからにしたら? 会社が赤字だからってそれぐらいの準備はしてあげるから。一生に一度のことなのよ」
母親としては当然の思いなのだろう。
でも一ヶ月しか命のない私には不要のものだ。
大金をはたいて家財道具を揃えたところで、一ヶ月後には無駄になる。
だったら最初から無理して買う必要などない。
「今どきは同棲からそのまま籍を入れる人だって多いじゃない。式もあげないで写真だけしばらくしてから撮るって人もいるわ。竜司さんの家のようにきっちりする方が珍しいのよ。友達だってみんな面倒くさいって言ってたし」
でも、私はその面倒くさい式を、竜二さんと華やかにあげたかったのだけど……。
「とにかく私のことはいいから。お母さんはそのお金をへそくってお父さんと離婚することになっても生きていけるように貯めておいて」
あんな横暴で自分勝手な父に、一生従って生きていくことなどないのだ。
「またそんな事言って……」
母は困ったように苦笑した。
父は結局退院の日に姿を見せなかった。
先日の『二度と私の前に現れないで』という言葉を律儀に守っているらしい。
いや、きっとがっかりな娘の惨めな輿入れなど見たくもないのだろう。
「香百合、その代わりと言ってはなんだけどこれを持っていきなさい」
母は私に通帳と印鑑を差し出した。
「これは?」
「結婚資金にとお父さんに内緒で二人に少しずつ貯めてきたの。香蘭は相手の竜司さんの家が旧家で、結納も式も新居も派手にしたいお家だからこのお金を使っても全然足りないぐらいだけど、あなたは手付かずのままだから。せめてこのお金だけでも持っていきなさい」
「……」
そうなのだ。
竜司さんの家は代々続く地主の家で、地代で一生食べていけるようなお金持ちだった。新居用に自社所有のマンションを改装して、私が選んだシステムキッチンも取り付けてもらって、結婚にあわせて完成するようになっていた。
式も一流ホテルに決めて、誰を呼ぼうかと話し合っていた時期だった。
途中まで決まっていたすべてをひっくるめて、香蘭が奪ったのだ。
本来なら私のために使うはずだったお金と労力。それに祝福の数々。
全部全部、あっさりと香蘭のものになってしまった。
再燃した悔しさにギリギリと歯噛みする。
「香百合……」
母は苦しそうに私の手をとった。
奪った者と奪われた者、二人の母として苦しんでいた。
自殺する前は、そんな母も香蘭の味方なのだと思い込んでいたが、今は苦しんでいたのだとよく分かる。
私は大きく深呼吸して、母の手を握り返した。
「大丈夫。私なら平気だから、このお金はお母さんが持っていて」
「でも……」
「誠也さんだって社長さんなんだから、お金に困ることなんてないわ」
「そうかもしれないけど、香百合の自由に出来るお金かどうかは分からないわ」
どんなにお金持ちでも、ケチでギリギリの生活費しか渡さない男もいる。
誠也さんがどういう人なのか、私も母も知らなかった。
結納も結婚式もしないで、家も広い実家でそのまま暮らそうというのだから、ケチの可能性は充分ある。私が望んだこととはいえ、結婚などにお金をかけるのは無駄だと思っているのかもしれない。そういう意味では私は都合のいい相手かもしれなかった。
体のいい家政婦が現れたと思ってるのだろう。
でも、それもこれも一ヶ月の辛抱だから心配ない。
ただ、母はそんなことを知らないから心配するのも無理はない。
「じゃあ困った時はお母さんに言うから、これはお母さんが保管しておいて。お父さんにも香蘭にも渡さないで、お母さんが持っていて。お願い」
「そうまで言うなら、分かったわ。絶対手をつけずに置いておくから」
「ありがとう、お母さん」
私は手を伸ばし、ぎゅっと母を抱き締めた。
そして心の中で、絶対にこの母を地獄になんか行かせないと誓った。