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婚姻届を出す朝に(離婚届シリーズ第二弾)  作者: 夢見るライオン


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残された日々③

「そしてあの日……」

 誠也さんは何かを言いかけて、ためらうように黙り込んだ。



 そのまましばらく無言の時間が続いた。

 声をかけようかと思ったが、私が口をはさんでいい沈黙ではないような気がした。


 そしてとてもとても重く長い沈黙の後、誠也さんは再び口を開いた。


「僕は家に置いていた建築関連の本を取りに来ました。平日の昼間だったのですが、たまたまこっちに来る用事があったので、ついでに持っていこうと家に寄ったのです。そしてキッチンに食料をとりに来た母とばったり顔を合わせてしまいました」


 何か恐ろしい言葉が出てきそうな予感がする。

 聞いてはいけないけれど……聞かなければならない言葉。


「母はずいぶんやつれて髪もボサボサで、最初僕は浮浪者ふろうしゃの泥棒でも入って家の中を物色ぶっしょくしているのかと思いました」


 あの少女のように美しい人が?


「母は僕を見ると獲物えものを見つけたような爛々(らんらん)とした目でにやりと笑いました。一目で正気じゃないと思いました。そして怖かった。一刻も早く本を取って逃げなければと。その僕の腕を母は張り付くように掴んできました」


『やっと帰ってきてくれたのねせいちゃん。信也さんの会社を継いでここで一生暮らしてくれるんでしょ? これからはずっと私のそばにいてくれるのね』


「母の言葉を聞いた時、一生この人からのがれられないような気がして恐ろしくなりました。この先どこにいても、何をしても最後にはこの人が僕の人生を根こそぎもぎとって自分のあの離れに閉じ込めるのではないか。僕は怖かったのです。尋常じんじょうでない母の心配よりも、成功に向かおうとしている自分のすべてを奪われそうな恐怖から逃れることばかりを考えていました」


 いつも冷静沈着で怖いものなど何もないような誠也さんが震えていた。


「僕は違うと言いました。帰ってきたんじゃない。もう二度と帰ってこないと」


「そう答えても仕方がないです。誰だってそんな場面に出くわしたらそう答えてしまうだろうと思います」


 私の精一杯のなぐさめは、誠也さんの心にかすりもしなかった。

 彼は私の言葉を受け流すように続けた。


「母はみるみる目をいからせてけもののような叫び声を上げました。それはもう僕の知っている母ではなかった。得体えたいの知れない凶暴な生き物だった。僕は動転して必死で母の手を引きがしました。母は泣き叫んでいた」


『いやだ、捨てないで! 誠ちゃんに捨てられたらもう生きていけない。死ぬしかないの。ねえ戻ってきて。じゃなきゃ死ぬわ。いいの?』


「母の死ぬ宣言はいつものことでした。何度も手首を切って、そうすれば僕と父が心配してくれると思っていた。絆創膏ばんそうこうを貼れば治るような浅い切り傷ばかりが何本も手首にありました。本気で死ぬつもりなんかない。だから僕は言ったのです」



――死にたければ死ねばいいだろ――




 私はハッと隣に座る誠也さんを見つめた。


 まさか……。



「僕はその時、本気でそう思いました。母なんか死んでくれればいいのに。そうすれば僕は自由になれる。もう母の面倒事にわずらわせられることもなくなる」


 私はすべてが分かったように両手で口をおおっていた。

 そして予想した通りの言葉が返ってきた。


「母から逃げ出して会社の寮に帰った僕は、翌週母が離れで死んでいるのが見つかったと連絡を受けました。しばらく食料を取りに来ている形跡のないことに違和感を感じて、父が離れに入ったのです。あれほど頑丈がんじょうに中から鍵をかけていたのに、施錠せじょうされてなかった。だからすぐにおかしいと思ったようです。そして死亡推定時刻を逆算すると、僕と会った直後だと分かったのです」


「……」


 かける言葉がなかった。


「僕と父は、母の病気に対する認識を間違っていた。自分に都合よく物事を捻じ曲げる母を、甘ったれたわがままな人間なのだと結論づけていた。勝手な妄想で僕たちのキャリアを傷つける迷惑な人だと思っていた。僕達は傲慢で、母の病気を理解しようとしなかった。死んだ後になって初めて、きちんと治療すれば、無理矢理にでも病院に入れて療養すれば良くなったのだと知ったのです。僕と父がもう少し母に寄り添って助けようと思ったなら、母は助けられた。でも僕達は自分の立場ばかりを心配して、母から逃げることばかりを考えていた。母を殺したのは、僕と父なのです」


 だから誠也さんは自分が母親を殺したと思っているのだ。


 そして桃花さんにそう言ったのだろう。

 だから誰とも結婚するつもりはないのだと。


「これで満足しましたか? 香百合さんの聞きたい話は聞けたでしょう」


 誠也さんは投げやりに言うと立ち上がった。


「僕の本性を知って怖くなりましたか? この家には暗くおぞましい歴史が刻まれている。父は世を捨て、母の死んでいた離れで母の死とひたすら向き合って生きることにしたようです。そして僕は……」


 私は誠也さんを見上げていた。


 これを聞いたら終わりなのだと心の中で警告音が鳴っている。



「僕は母がいなくなれば自由になれると思ったのに……今度は母への罪の意識にしばられることになった。前以上に母にとらわれ、母から逃げられなくなった。自分が一つの命を……産んでくれた母親の命を奪ったのだという罪悪感で身動きがとれなくなった。どうすればこの罪の意識から逃れられるのかと、もがいてもがいて、母が生前望んでいたように仕事をやめ、父の会社を継いでこの家に戻ってきました。それでも僕の罪の意識は消えなかった。僕は母の呪いにちたのです」


「呪い……」


「そう。僕はこの呪いを解く方法をずっと考えていた。そして見つけたのが香百合さんだったのです。母が殺そうとした女の子。あなたを幸せにしたなら僕の呪いは解けるのではないか。でもあなたは竜司くんと婚約していて、僕の出る幕などないと思っていました。それが破談になったと聞いて、これは母からのメッセージだと思ったのです。だから結婚を申し出ました」



「……」



 分かってはいるつもりだったけれど、実際に誠也さんの口から聞くとズキリと心が痛んだ。


 誠也さんは十才も年下の女の子になど微塵みじんも恋などしていなかった。


 最初から彼は私に何も望んでいなかった。一方的に与え続けるだけで、私に与えて欲しいものなど何もない。それがこんなに悲しいなんて。


 何も与えられるものがないことがこれほど切ないなんて。



 そして誠也さんは私が一番恐れていた言葉を告げた。


「この数週間、香百合さんと過ごして分かったのです。僕が誰かを幸せに出来るなんて傲慢ごうまんだった。僕自身が闇に飲み込まれそうになっているのに、誰かを救えるなんて思い上がりだった。だから……」




「この家を出たいなら香百合さんの望む通りにして下さい」



次話タイトルは「最後の日かっこ」です

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