誠也さんという人③
「今日は唐揚げですか」
誠也さんは帰るなり、食卓を見て目を細めた。
「シンプルに塩コショウで味付けたものですけど」
「それが一番好きです」
【夫を夢中にさせる料理の極意、其の五】
定番料理の味付けはシンプル、オーソドックスにすべし。
メイン料理はシンプルで失敗のないものを。冒険するならサラダと一品料理で独創性を出して料理上手をアピールすればいい。
「あと時間があったので、トマトとアンチョビのブルスケッタと、コンソメ野菜ジュレを作ってみました」
「こんなものが家庭で作れるんですね」
誠也さんは背広を脱いでネクタイを弛めると、さっそく食卓についた。
「いただきます」と手を合わせると待ちきれないように食べ始めた。
ご飯と味噌汁と漬物を出して、私も食卓につく。
しばらく黙々と咀嚼する音だけが流れる。
「今日は母が来たんです」
私が言うと、誠也さんは箸を動かす手を止めた。
「お母さんが? 何か言っていましたか?」
「昔、川で溺れた時、私を助けてくれたのは誠也さんだと言っていました」
「……」
誠也さんは一瞬黙り込んでから、再び唐揚げに手を伸ばして頬張った。
「私、全然覚えてなくて、お礼も言わずにごめんなさい」
「昔のことですから。それにお礼ならその当時、戸田さん夫妻が家に手土産を持って来てくれたと聞いています。それに……」
何かを言いかけて、誠也さんは窺うように私を見つめた。
「お母さんは他に何か言っていましたか?」
「他って?」
「いえ。それならいいんです。とにかく気にしないで下さい」
「あの……」
「香百合さん」
まだ問いかけようとする私に、誠也さんが真顔で名前を呼んだ。
「はい」
何か重大な話でも始めるのかと畏まったが……。
「香百合さんの料理はとても美味しいです。こんなに家に帰るのが楽しみになったのは生まれて初めてです。ありがとうございます」
両手を食卓について深々と頭を下げたと思ったら、次の瞬間には唐揚げを箸でつまんで頬張っていた。そして満足気に目を細めている。
(変な人)
そう思うのに、不思議に心がほっこり温まる。
誠也さんと暮らしてから、知らぬ間に微笑んでいることが増えた。
「そういえば銀行で定期預金をいくつか作りました。印鑑は返しますね」
私はソファテーブルに置いていた印鑑と通帳の束を取ってきて食卓に置いた。
「定期預金ですか? 大して金利もつかないと思いますが」
「はい、分かっています。これは誠也さんが悪い人に騙されないために簡単に引き出せないようにしました」
「悪い人? 僕が騙されると?」
「はい。オレオレ詐欺とか、ちょっとお金を貸してくれとか言われても、簡単に出せないようにしました。それに印鑑なんて簡単に人に預けてはダメですよ」
「……」
誠也さんはしばし黙り込んで、拳で口元を押さえ何かを我慢しているように見えた。
「香百合さん。僕は会社を経営しているんですよ。銀行とも数社と取引をして、時には声を荒げて交渉する人間ですよ。それがオレオレ詐欺に騙されると?」
誠也さんの肩がすこし揺れている。どうやら笑いを堪えているらしい。
「だ、だって、よく知りもしない私に通帳と印鑑を渡すなんて……」
バカにされたような気がして、ムキになって反論する。
しかし。
「香百合さんのことはよく知っています。僕の妻ですから。香百合さんだから渡したのです。他の人には渡しませんよ」
柔らかに目を細める誠也さんに、かっと顔が赤くなるのが分かった。
こんなはずはないと思うのに。
こんな事があるはずがないと思うのに。
嬉しくて心が騒ぐ。
忘れていた高揚感で心臓が高鳴る。
まるで竜司さんに初めて出会った頃のように。
いや、幼いあの日とは違う、もっと深い安らぎを伴うもの……。
そんなはずはないのだと、私は必死で心を鎮めた。




