3,大国ジュノアの王太子は足踏みしていた
多種の植物が植えられた園庭には、桃色や赤、白、黄色、青、紫などという色とりどりの花が咲きほこる。どこからか飛んできた小鳥たちが枝にとまり、さえずり合う。深紅の橋の下には小川が流れ、池には鮮やかな鯉が泳ぐ。花々の芳香と揚土の香りが、そよ風に躍る。
麗らかな陽光が降りそそぐ園庭の中央に、四本の柱に支えられた朱と白を基調とする茶室がある。そこで、大国ジュノアの王太子リャン・ユエンは茶を嗜んでいた。
背筋を正し、柄杓を用いて、窯から湯を急須に注ぐ。居ずまいを正し、茶葉を蒸らすこと数分待つ。
頭部は小さく体も細身、さらに透き通るような色白の肌をしたリャンの佇まいは人形のようであった。身につける衣装も穢れのない白と水色を基調とし、長い袖と裾が特徴的なジュノア国特有の衣装を身につけていた。
身長こそ平均男子並であっても、男性とも女性とも言い難い風貌をしているリャンは、幼少期にはよく姫と間違えられた。
さすがに声変わりを終え、身長が止まるころには、間違える者はいなくなったものの、その中性的な美しさは初見の誰もが息を呑むほどであることは変わらなかった。
長いまつげが揺れる。視線を斜めに落とし、少ない所作で急須の取っ手を掴む。
急須を高く持ち上げ、細く長い金色の液体が小さな湯飲みに向かい落ちてゆく。手首を返せば、ぴたりと止まり、湯飲み半分に茶が綺麗に注がれた。
袖を押え、急須を置く。
滑らかな手が湯飲みにふれる。持ち上げ、もう片方の手に乗せた。二度礼を繰り返し、顎下まで湯飲みを寄せ香りを楽しむ。
ふくよかな香りを胸に納めて、目を閉じる。口元に湯飲みを寄せ、茶を口に含んだ。
その間も鳥はさえずり、せせらぎの流水音が流れていく。
涼やかな時間のなかで、庭の造形美とリャンは一体化するようであった。
目を開けて、湯飲みを置く。襟を正し、座した膝に両手を添えた。
まっすぐに前を向く。ゆったりと背に流れる黒髪が、時折通り抜けるそよ風になびく。
丸みを帯びた両目はどこか憂いを含んでいた。リャンの気分は悪かった。いつもなら、心落ち着くひと時でも、心のさざ波はおさまらない。
(これも、私が招いたことなのか)
自責の念が湧いてくる。自ら招いたことと言えば、その通りとしか言えなかった。
リャンは王太子でありながら、後宮にいる妃の候補たちへの面会を足踏みしていた。妃を選らばなくてはいけないと理解はしていても、誰かを選ぶ気になれずにいたのだ。
国内から選ばれた娘たちを待たせること数年。とうとう父王もしびれを切らした。
『国中の豪族から見目良く、知性も備わっている娘を集めたのに、いまだ妃を一人も決められないでいるとは何事か』
厳かな声音で父王に罵られた言葉はリャンの頭を駆け巡る。
(分かっております。分かっておりますとも、父上)
『王太子であるうちに正妃をとは言わない。側妃の一人ぐらい決めよ。父としてではなく、王として命ずるぞ』
『父上、私も……』
(王太子として妃を選ぶ必要があるのは存じております)
目元を歪め、ここにいない相手にその場ではどもってしまった言い訳の続きを思う。
『同族の娘では満足しないのか、贅沢な太子よ。ならば、一計を講じるぞ』
そう言った父王は踵を返した。呆れられても仕方ないと嘆息した数日後、夕餉の席で父王が言った。
『島国ムーナから、姫を一人後宮へ嫁すよう打診し、了承を得た。近いうちに後宮へムーナの姫がくる。太子よ、この意味が分かるな』
(あの時は、箸を取り落とすかと思ったよ)
柳眉を歪めたリャンは、苦悩の表情を浮かべる。
国内のそれ相応の身分の娘から選べないでいたら、結局、袋小路に追い詰められた。
島国ムーナの姫を後宮に入れた場合、他国の姫をないがしろにはできない。実質、一人目の妃として、リャンは受け入れねばいけないだろう。正妃か側妃か。
気に入らないとばかりに足を向けず、国へ追い返しては、外交関係にひびが入る可能性がある。
リャンに問題を起こす度胸は無い。
後宮に入る姫だとて、妃となる心づもりで嫁ぐはずであり、国を離れ単身他国の後宮に乗り込む以上、それなりに覚悟をして来るはずだ。
(女系の島国ムーナは断らないと父王は理解されていたか。外交上、断り難い姫を後宮に入れることで、私の外堀を埋めようというのか)
リャンは幾度目かのため息をつく。
父王は機知にとんだ見目良い娘を好む。特にリャンの母は父王の妃のなかで最も美しく、父王のお気に入りであり、未だ寵愛絶えずに仲睦まじい。
夫婦とはかくあるものだとリャンも幼い頃から理解はしていた。
男らしい父と嫋やかな母。二人のつり合いを見て育ち、これが夫婦というものだと未だ目に焼き付けてきた。
なのに、母に似たリャンの面立ちは、威厳よりも雅が立つ。
リャン自身も、どこぞの女性より面立ちが美しいことを自覚していた。
生まれた頃から類まれな容姿のせいで、母はリャンに女児の恰好をさせていた。古くから男児に女児の恰好をさせて育てる風習はあったが、乳幼児の死亡率が低下した今は廃れている。なのに、母はリャンに女児の恰好をさせていた。
(あれは母の趣味だったのだろうな)
容姿を好む父王もそんなリャンをかわいがってくれていた。
成人するまでリャンは母とともに父の後宮におり、女性風の衣装を身につけていた。その華やかさ、雅さは、男性的な衣装より馴染み、本心ではその風雅な装いを好んでいた。
女性的な遊びや趣味も好きであった。茶も花も、書も、唄も、琴も。
リャンは生まれながらに容姿だけでなく、中身も女性的な部分を強く持っていた。
男らしくない。
父王のような威厳もない。
それが、王太子であり、これより妃を娶らなければならないという時になって、リャンの肩に重くのしかかった。
脳裏に焼き付いた夫婦像と自己の違いに気づき、怖気づいた。
(時々、私は疑ってしまうよ。私が王太子に選ばれたのは、顔だけなんじゃないかと……)
容姿しか取り柄がない錯覚に陥り、いつまでも半人前の気持ちが抜けないリャンは、理想の夫婦像を父母に見出していても、父王のようになれない現実とのジレンマのなかで、正面切って女性と向き合う気持ちになれずに平行線をたどっていたのだった。