14,惹かれていると言えなくもない二人
後宮から戻ったリャンは執務のための部屋にこもると、国中から寄せられる嘆願書に目を通す。
王太子リャンの仕事とは、嘆願書の確認、それにまつわる現場の視察を経て精査の末に行う意思決定だった。
小さな嘆願から大きな嘆願まで目を通し、国にはびこっている諸問題を把握する。
身軽な王太子であるうちに国中を見て回れるという利点もあった。
年の半分は国内を飛び回っていた。戻ればゆっくり休み、趣味を楽しむ。一息つくとすぐに日々溜まる嘆願書に目を通す。そして視察に出る。
決まった習慣を繰り返しているうちに後宮に渡らないまま三年の時が過ぎていた。
その間、地方に出ても、誘惑されることもなく過ごす。
後宮には選ばれた娘たちがいると知る豪族たちは、不用意に娘を王太子に差し出さない。
王太子に見初められるよりも、それにより王家の逆鱗に触れる方が、家の存続が危ぶまれるからだ。清く正しいことを重んじるジュノアでは、安い色仕掛けは不敬にあたった。だからこそ、きちんとした豪族であればあるほど、妃教育に力を注ぐ。選ばれるのは簡単ではないが、妃教育を施している娘であるほうが嫁ぎやすいのだ。
こうして、嘆願書を手掛かりに地方を渡り歩いても、リャンはいつまでも奥手なままだった。
奥手という欠点はあっても、仕事ぶりは見事だった。歴代の王太子のなかでも、彼ほど現場への視察を重視する者はいない。
後宮育ちであることを負い目とし、世情を知らないからこそ、飛び回っていた。奥手も裏返せば、穏やかで謙虚な人柄となる。
フェイは、多忙なリャンの現状を理解していた。彼は真横で王太子としての責務を敢然と勤め上げる様をみてきた。
風雅な趣味を好みながらも、現実へ目を向ける時の厳しい眼差しは、次代の王に相応しい。豪族たちも、その真摯なリャンの仕事ぶりに敬意と忠誠をちかいつつあった。
王太子妃がなかなか決まらない。それだけで、リャンの名声が陰ることが許せなかった。ただ、後宮に行き、妃候補から妃を選ぶ。それさえできれば、リャンの不安要素は無くなる。
現王の御代も平和であるが、それ以上の平和と繁栄を手にするのではないかと期待せずにはいられない、リャンはそんな王太子であった。
ため息を吐いたリャンの、嘆願書を読む手が止まる。天井を見上げ、横にある水差しから湯飲みに水を注ぎ入れる。一気に飲み干し、口元をぬぐった。
(どうしよう。二の姫と夕餉をともにしたら、いったい何を話せばいいのだろう)
嘆願書も頭に入らないほど、今夜のことでいっぱいだった。
リャンにとって、仕事中に仕事以外のことが頭から離れないなど生まれて初めての経験だった。歴史を誇り、権力を持つ豪族でも、穏やかに対応してきたのに、他国の姫一人になにをもたついているのだと、自分を叱咤したくなる。
(他愛無く、島国の話でも聞くか。それとも隻腕の理由、……いやいや、そんな事情がありそうなことを不躾に聞けないだろう)
頭を振った。嘆願書に再び目を落すも、数行で頭に入らなくなった。
(勢いで、夕餉をなどと言ってしまった。なんであんな急なお願いをしてしまったのだろう。まずは、予定を確認し合うとか、従者を通すとか、色々あったろうに。
私はいったい、何を焦っていたのだろう。これで、もう会えないとか、そういう場面でもないのに……)
早く話を聞いてみたかったのだ。
どうすれば、あんな風に男らしくあれるのかと。
(……、私なりに、妃を決めずに来たことが胸につかえていたためか)
身勝手な理由だとリャンの口元が歪む。己の悩みのために手順を飛ばしたようなものである。
(呆れられてないだろうか。
妃候補たちは仲が良かった。今までの私の不甲斐なさを、彼女たちはどう思っていたのだろうか。
仕事で忙しくなど言い訳……、そんなことを言っていたら)
悶々とする感情はリャンから漏れ出る。顔に現れる感情がくるくる変わる。
(ラーナ様も呆れられているだろうか。でも、あの妃候補たちは優しかった。どう思っていても、表面ではそんな心内を微塵も感じさせないだろう。
恨まれていてもおかしくないのに。
あんなに優しく迎えてくれるとはね。
ああ、あれもこれも、ラーナ様が導いてくれたおかげなのか。
妃候補たちを平等に接する姿。突如現れた私が困っていたら手を差し伸べる懐の深さ。思い出しても、なんと眩しい姿か)
もじもじしながら、くしゃっと嘆願書をにぎってしまい、リャンは慌てて、その皺を伸ばす。
(どうしたら、あのように余裕ある対応ができるのだろう。
私一人であれば、妃候補たちのなかにはいれない。そもそも、適切な言葉がけもできず、一方的に彼女たちを緊張させていたことだろう)
頬杖をついたリャンがため息を吐く。
(あんな男に私もなりたい)
すでにリャンは嘆願書の字面を追ってもいなかった。
同時刻、ラーナが湯殿で『面倒な生娘』と評している。
その通りの思考が、リャンの頭を駆け巡り続けていた。
◇
横に控え補佐をするフェイは殿下を黙って見ていた。嘆願書を読むことも大事だが、この王太子がこなしてきた仕事量を思えば、今は王太子妃を定めることが先決だ。
今夜は決戦だな。
フェイは、赤くなったり青くなったりする殿下を横目に、いかに一晩二の姫の元ですごさせるかと真顔で考えていた。
◇
湯から上がったラーナは、女官たちの手によって念入りに手入れされた。髪はいつも以上に梳かれ、良い香りがする香油で整えられた。
衣にも甘い薫香が焚き染められている。
衣装の色味は白。少し黄味がかっている。若干薄手であり、いつも身につける衣装のように内側に細かな隠した紐はなかった。
首元をぴっちりと閉められて、胸元をきゅっと抑えたと思うと、いつもよりきつく帯が締められた。
(なるほど、帯を引けば、前が露になる仕様か。内側に紐がないのは、その方が脱がす時に早いからか)
「……」
腹がきつくてならない以上におかしな気持ちになってきた。
(あの殿下に、この帯を引くような真似はできまいに……)
自然と口元が緩む。
夕餉を一緒に食すだけで、手いっぱいになりそうな王太子だ。
(可愛らしいと言えば可愛らしいか)
面倒といっても、わがままを言うわけではない。ただ、頬を赤らめもじもじする程度だ。緊張して食べ物が喉を通らないと言い出すか、手が触れただけで真っ赤になるぐらいだろう。
あの中性的な美丈夫の面が崩れるのだ。それはそれで見ものである。
ふふっとラーナから笑みがこぼれる。
身支度を手伝う女官たちの手が一瞬止まり、また動き出す。
(楽しい一時になりそうだ)
手を取ればあの美しい顔を赤らめて歪めるのだと思うと、ラーナの悪戯心を刺激した。