10,殿下は小窓から妃候補たちとラーナの様子を伺い見る
ラーナと四人の妃候補が中央の居室で談話を始めた頃、女官に案内された王太子リャンが初めて後宮へ足を踏み入れた。
怖気づいていた気持ちがなんだったのかと思うほど、すんなりと通りぬけ、拍子抜けする。
(後宮へ渡るとは、こんなにも簡単なことだったのか)
ただ行けばいいだけなのに、今まで足に鉛をつけたかのように動けなかった。
慎重な性格故に他国の姫をないがしろにしているという風聞を恐れる保身からの行動であっても、殿下が先へ進み安堵したのは、ついてきた従者のフェイである。
女官に導かれて、衣擦れの音に気をつけながら廊下を進む。中央にある居室が見えてきた。目の前にいた女官が止まり、リャンも足を止めた。背後からついてくる従者のフェイも立ち止まる。
妃候補たちの楽し気な笑い声が響く。
リャンはほっと胸をなでおろした。
後宮から背を向け、彼女たちを放って置いたことに変わりはない。実在の娘たちを実感すると、申し訳なさで胸苦しくなってきた。
(私が臆病なばかりに、こんなところに何年も閉じこめてしまっていたのか)
前を歩く女官が廊下の端にずれる。
視界に長い廊下が飛び込んできた。
そこには童のような者が座っていた。こちらに気づくものの、女官が口元に指を寄せると、驚きの表情を浮かべながら、童はそっと口に手を寄せ声を出さなかった。
妃候補の誰かが連れている従者であるとリャンも察する。
沈黙する女官が指で壁を示す。そこには小窓があった。
そこからなかの様子を伺い見る。
長く背に垂らした青い髪が真っ先に目に飛び込んできた。
海よりも空よりも深い青に魅入られ、リャンは息を呑む。
(あれが二の姫ラーナか……)
島国ムーナに特徴的な青い髪をもって、リャンはラーナを認識した。
その青い髪の者を囲むように黒髪の四人の妃候補が囲み談笑している。
中から、五人の会話が漏れてくる。
「ラーナ様はいつもどのように漁をなさっていたのですか」
「小型の船に乗って海へ出ます。沖には行かず、いつも海辺が見えるところで、潜っていました」
「お一人で行かれるの」
「いいえ、傍に仕えていますミルドと共に小舟で出ています。小舟は波に揺られ、青空と海の境界線が彼方に見えます」
ラーナは四人の妃候補の問いに、余裕の笑みを浮かべて答えている。
その清涼感と清潔感を伴う声音に四人の妃候補はうっとりと聴き入っているようであった。
「そんな広い海で、たったお二人で……」
「すごいですわね。私たちは大型の旅行船しか乗ったことがありません」
「海に落ちたら大変ですものね」
口々に海は怖いと妃候補たちが語る。リャンもまた海はどこか空恐ろしいと思っていた。同感とばかりに、うんうんと頷いてしまう。
「泳げないのですか」
「子どもの頃、川で泳ぐことはありましても、海となればさすがに。ねえ……」
「波と海水がどうしても、苦手ですわ」
「子どもの頃のように、自由に泳ぐことはゆるされませんしね」
「湖の端にある故郷の別荘でも、許されるかしら、ね」
「年頃の娘が、人前で肌を晒すのはよくないことなのです」
高貴な者もまた肌の露出を許されない。リャンも幼少期から袖も裾も長い衣装ばかり身につけていた。夏場は風通しの良い薄手の生地、冬場は厚手で体の熱を逃さない生地と、季節ごと細かく衣替えするのが常であった。
話に耳を傾けるラーナは穏やかに妃候補たちを見つめている。そんな妃候補たちはほんのりと嬉しそうに笑んでいる。
(なんと穏やかな時間を演出される方だ。私では、あそこまで余裕をもって四人の妃候補と向かい合うことなどできないだろう)
妃候補のリィーが話題を変えた。
「島国ムーナは踊りが有名ですわね。ラーナ様も踊られますの」
「踊りの名手である姉から手ほどきを受けておりますが、私の場合はあまり人前で踊ることはございません」
妃候補たちの視線がラーナの片腕に向けられる。
リャンもまたその視線に促され、ラーナの片腕を見つめた。袖がぶらりと垂れ下がっていた。流れてくる風に袖繰りが揺れている。
二の姫は隻腕であるとリャンも聞いていたが、実際に見るとさすがに驚いた。
妃候補たちの表情がさっと曇る。リャンもまた、驚いた自身の反応を恥じる。
ラーナだけは、そんな妃候補たちの心内を理解したかのように微笑みかけた。
「お気になさらずに。私が踊らないのは、漁の方があっているからです。私は踊りは嗜む程度。真の名手は、一の姫シーラです。今回、右の大国エラリオへ嫁いでしまいましたがね」
なにも気にしなくていいと声音で語るラーナ。その高潔さにリャンは目を剥く。
「では、お姉様はすでにエラリオに……」
「残念だわ。もし島国ムーナに旅行に行く機会があっても、お姉様の踊りは見ることは叶わないのね」
「しかし、四の姫は姉に似て、踊りがとても上手なので、数年後には国を代表する踊り手になるでしょう」
(なんと、妃候補たちの後ろめたさをいつの間にかかき消す清涼感。涼やかでいて、芯の強い声音は、共にいる者たちに安心感を与えている。なんと、なんと……)
「なんと、男前なんだ」
最後の言葉は、ポロリと漏れ出た。
リャンはふらりと小窓から離れ、前進した。その間も妃候補たちとラーナの会話は続く。
「やはり王族の方々は踊りがお上手な血筋なのですね」
「どうでしょう。同じ姉妹でも、向き不向きはありますよ。三の姫はとても賢い子なのですが、踊りは苦手です。私は表立って踊るには少々難があります。格別、一の姫と四の姫が踊りがとても上手いのです」
リャンが近づいてきて、驚きながらミルドが廊下の奥へと後退する。動いた拍子に入り口の縁に体があたり、カタンと音が鳴った。
四人の妃候補とラーナが音に反応し入り口側へ目を向けると同時に、リャンは部屋の入口へ立ったのだった。