82
「貴公が訪ねてきた時は実に驚かされた。なにせ平民同然のみすぼらしい格好で側近と護衛のみを伴い我がイガヤイムへ助けを求めてきたのだからな」
葡萄酒を片手に過去を語るカインディル。
彼の眼前にはエタウィの領主ピラナンが毛布を被りながら座っており流暢な語りを聞かされていた。
「そして話を聞いて更に驚かされた。そんな馬鹿げた事があるものかと笑う私に貴公は憤り掴みかかろうとまでした。それ故に密偵に探らせてみたが……我ながらあれは英断であったな」
カインディルは笑みを深めて鼻を鳴らした。
「貴公は真実のみを口にしていた。密偵からの報告を耳にした時は皆で私を謀っているのかと疑心暗鬼にもなったが、いまではそれも良い笑い話よ」
くつくつと笑いをこぼすカインディルの姿はまるでイタズラが成功した子供のように無邪気であり――正真正銘の邪悪な笑みでもあった。
「……結果として、貴公は自己の保身に成功したな。私が四都市より財を引き上げるきっかけを提供し、代わりに荒廃していくであろう北方域からの脱出が叶ったのだ。さぁ、共に祝おうではないか」
毛布にくるまって震えるピラナンにカインディルは葡萄酒の注がれた杯を勧める。
しかし、ピラナンはそれを受け取ろうとはしない。
カインディルの表情が不快なものに変わっていこうとも、ガチガチと歯を鳴らして震えていた。
「……まだ、ダメなんだ」
毛布の奥よりピラナンのか細い声が鳴る。
「もっともっともっともっともっともっと遠くに逃げなきゃダメなんだよぉ……」
病的なまでに怯えきったピラナンにカインディルはもう声を掛けようとはしなかった。
何を言っても無駄と割り切り存在そのものを無視することにした。
「もっと……遠くに……もっと、遠くに……でないと」
カインディルに無視されようとピラナンはブツブツと呟きつづける。
彼は本能的に悟っていたのだ。
どこに逃げようと安全な場所など無いことを。
――記憶が呼び起こされる。
突如としてエタウィを襲った悪夢、悪逆こそが正道だと言い切るエタウィに振りかかった未曾有の厄災。
「あぁ、あぁぁあ、アレがやってくるんだよぉぉお」