逃避行なんて如何です?
数日前に聖女召喚の儀が行われた。私がそれを知ったのは、つい先程だった。私はこれでも神殿ではそれなりの地位にいるのだ。その私に数日遅れで聖魔法関連の報告がきた。これは神殿の権威を揺るがす由々しき事態だった。温厚な神殿長も目の前で眉間に皺を寄せて、人差し指で机を叩いている。そもそも召喚の儀を執り行うのは本来神殿である。その大前提を覆してくれたのだ。しかし国王でさえも一日経つまでは知らなかったらしい。不審に思った国王が王太子を問い詰めなければ、もうしばらくは判明しなかっただろう。
王城からの文書を隅々まで目を通すと、目に留めざるを得ない一文が書かれていた。
王族と宮殿魔道師立ち会いのもと、異次元より聖女を召喚した。本人は未だに浄化の力は使うことが出来ない模様。現在は慣れない環境に寝込んでいる。
道徳観に欠ける我が国の王族は聖女を召喚したことが絶対に正しいと思っているようだ。いや、王族という括りは正しくない。現国王は前回召喚された聖女が魔物に怯えて自死してしまったことを知っている。それなりの対応はしてくれていると信じたい。しかも今回の聖女はまだ年端もいかぬ子供だという。勿論、正確な年齢は教えてもらえていないそうだが。当然ながらその聖女は我々のことを警戒して碌に話しても貰えない。そこで人心掌握に優れた神殿に助けを求めてきた。
「神殿長、どうしましょうか」
「ふむ……。取り敢えず面会が必要じゃろ。出来れば王城ではなく神殿に来ていただきたいものじゃが。今は王城のどこにいるんじゃったかの」
神殿長の言葉に側仕えの神官が紙をペラペラと捲る。軽く目を通すだけで理解できるくらいには側仕えは優秀だ。
「今は白百合の間ですね。何故か自然と結界を貼ることは出来ているみたいで誰一人として中に入れていませんよ」
「白百合じゃと?」
神殿長は正気とは思えん、と呟きながら側仕えから書類を受けとると、机にぽつんと置いてある羽ペンを手に取り走らせる。
白百合の間。女の戦場とも言える後宮の最も南に位置する部屋だ。昔から南は縁起が良いと言われている王国では、白百合の間は正妃のものとされる。それ自体が正妃の誇りとも言え、聖女の王城での風当たりは良いとは言えない。送られてきた書類にも後宮との関係は不良と記されていた。
「神殿長、やはり王家は……」
「聖女を迎え入れる気じゃろうな。確か第二王子がそのくらいの年頃だったはずじゃ。王太子も一回りも離れてないしの」
神殿長は人格者だ。自分のようなはぐれ者を拾って懐に入れてくれる。だから神官達は神殿長に忠誠を誓うのだ。きっと幼い、それもこちらとは全く無関係で巻き込まれただけの少女が王家の良いように扱われるのが許せないのだろう。
そこから神殿長は早かった。すぐに王城の宰相室に取り次ぐと面会を取り付けた。勿論部屋から出ない聖女と会話すら出来るか分からないと念押しされたが。久方ぶりの城内の空気は張りつめていて息が苦しくなりそうだった。大神官という役職柄人の目に晒されることは慣れているが、今日はどうにも胃が痛くなる。神殿の者が城に来ること自体が珍しい挙げ句、来たのがこの時期。察しがよほど悪くなければ聖女関連なことは分かるのだろう。微かに聞こえる侍女や文官達の話し声は不機嫌そうに聖女を非難するものばかりで、少しだけ顔を歪める。
私の様子に気づいたのか、神殿長が気遣うように声をかける。
「辛いならローブのフードを被っても良いぞ?」
「ありがたいのですが、城内でそれは不敬でございましょう」
「そうか……」
神殿長はそれから何か言うことはなかった。私達が来ている真っ白なローブには鼻の上まですっぽりと隠せるフードがついている。生まれつき、他の人の何倍も耳が良かった私は何とか聞こえづらくさせる方法はないかと模索した。そして最もマシだったフードで耳を隠すことだったのだ。結局一番始めに思い付くような単純なものが最大限だったことで当時は軽く目を回してしまった。
王城から後宮に行くには厳重に警備された門を通らなくては行けない。女の園である後宮に入ることが出来る男は国王と生殖機能を捨てた神官のみだ。
深紅の門は、血のようで後宮の数々の逸話が思い起こされる。顔の通っている私達は軽く持ち物を調べられたくらいで中に入ることが出来た。聖女の部屋まで辿り着くと、中から何かを落としたような音が聞こえた。私達は顔を見合わせると、出来るだけ優しくノックする。神殿長が声をかけるが、反応はない。
「すまないが、開けてはくれんかのぉ。老体には辛いのじゃ。主をこちらの都合で連れてきてしまったことについて心からお詫び申し上げよう。すまんかったな。いや、謝っても謝りきれることではないし、許して貰えるとも思っていないのじゃが」
ゆっくりと語りかけるように、話すとしばらくして部屋から嗚咽が聞こえた。本当に謝りきれることではない。幼い少女を親元から無理矢理話して利用しようとしている。詳しい事情を知らない民も、聖女の発現を祝っている。無意識かで誰もが彼女に期待し、理想を押し付けるのだ。今までは書類で情報を知っていただけだった。でもこうして話せなくても、彼女の嗚咽を聞いているとどうしても昔の自分を思い出してしまって。力になりたくなってしまって。ちらりと神殿長の方を見ると、目を細めて口角を上げている。私がこうなることを知った上で連れてきたんだろう。
「待って……」
「ーーどうしたのじゃ?」
唐突に聞こえた女性らしい高い声に、戸惑いつつも尋ね返した。しばらく様子を見ていると、ゆっくりと扉が開いた。中から恐る恐るという風に顔を出したのは、まだあどけなさの残る黒髪の少女だった。少女は私を見ると、驚いたようで目を見開いた。一度も言葉を発しなかったため神殿長だけだと思っていたのだろう。吸い込まれるような黒い瞳に目をそらせないでいると、少女の方がばつの悪そうにうつむいた。罪悪感で私も目をそらした。
私達を部屋の中に迎え入れると、すぐに結界を貼った。まだまだ粗はあるが、大神官並みでなければ解くことは出来ないだろう。丁度影になっていた彼女の体が明るい室内だとよく分かって、つい生唾を呑み込んだ。凹凸のない、よく言えばスレンダーな彼女はなんとも私を駆り立てた。少女趣味はないはずだった。欲情したと言えば見も蓋もないが私は彼女に惚れてしまったわけである。
「あの、貴方方は……」
「おぉ、そうじゃった。儂はロンデン、隣の若造がレンじゃ」
「神殿長、若造とはなんですか」
もう三十路も近いんですよ。不服そうにそう言えば、神殿長はやれやれと肩をすくめる。神殿長からすれば年齢も実力も若造なのだろうが、なんだか認めてくれていないようで腹が立った。いや、そこまでもいかない。子供の癇癪のようなものだ。
「神殿長……?」
「うむ、一応神殿長の地位につかせてもらっておる。神殿は唯一王家の力が届かないところじゃ。貴殿には出来ればこちらに来ていただきたい。勿論決めるのは貴殿じゃがの」
あからさまに王家の干渉がないことを聞いて安心した様子の少女は固く握りしめた手を緩めた。恐らく何か問題でも起こったのだろう。王妃か王子か。王女達はそこまで関わりはないが、比較的温厚だったはずだ。
「もう少しだけ、考えさせて下さい」
「それが良い。レンや、行くぞ」
話すだけ話して足早に出てきてしまった私達はそのまま宰相室に向かう。考えさせて欲しいと言った少女の悩ましげな表情が頭から離れない。それを振り切るように足を早めると、神殿長から苦言を呈された。
宰相室には、丁度王太子がいた。ふんぞり返るように、ソファに座って宰相と話している。ポテンシャルは充分なのだが、何分思慮が浅い。私達が宰相の許可を得て、中に入ると王太子が睨み付けてくる。
「いくら神官とは言え、宰相の部屋に伺いなしで入るのは無礼だとは思わんのか」
唖然である。流石貴族に難聴王子と揶揄されているだけある。一時は第二王子を王太子に任命するのはどうかとの案も出ていたようだが、国王の温情で流れたのだ。未だに第二王子を担ぎ上げようとする貴族は多く、王太子が何か失態を犯せば即座に引きずり下ろされてしまうだろう。だから国王も王太子も後ろ楯になる婚約者を探さねばと躍起になっている。きっと少女が王族を警戒していたのはそれが一因だ。
「お言葉ですが、殿下。神殿長殿と大神官殿は礼を払っておりました。ノックの音が聞こえませんでしたか?」
嫌味のように告げる宰相に王太子は顔をしかめる。庇ってくれたのは助かったがその言い方はどうなのだ。隣の神殿長も同じ意見のようで、笑顔がぎこちない。そういえば宰相の実家は第二王子を支持していたな。
「そうじゃ、宰相。聖女様をこちらで預からせては貰えんかのぉ……。勿論本人の意志が第一優先じゃが」
「なっ!そんなこと出来るか!」
神殿長の言葉を聞いた王太子が口を挟んでくる。宰相は王太子を煩わしそうに見ると、すぐさま答えた。やはり出てくるのは渋る声。だが神殿長も引きはしない。
「しかしですねーー」
「十年前の悲劇を繰り返しても良いのか?」
「それは、駄目です。そうですね、陛下に報告します」
それでも口を閉ざさない王太子に宰相が出ていくように促す。ついでのように私達も追い出された。正装である白いローブは大分薄く、通気性が良い。直に冬用のローブを作る予定だが、それを早める必要がありそうだ。廊下を歩いて、外に停めてある馬車に行くまでにはすっかり体は冷えてしまっていた。
それから数日後、王城から書類が届いた。聖女は神殿に預けるが、一年が経てば聖女としての仕事をしてもらう。内容は大体このようなものだった。聖女の仕事に王子との婚約が含まれているかは怪しいところだが、何とか彼女が神殿に来れることに私は舞い上がった。彼女の部屋を用意して、他の神官達全員に情報を正確に伝達して。そんな怒濤の日々を過ごしていると、神殿の来客用の呼び鈴が鳴るのは案外すぐのことであった。
私達と同じ白いローブを身に纏った彼女はまるで天使のようであった。私が口を開こうとすると、彼女が先に話し出した。
「今日からお世話になります、リノです。先日は折角来てくださったのに碌にご挨拶も出来なくて申し訳ありません」
泣きじゃくっていた彼女がいつの間にか王国の作法を身に付けていた。きっと王城教師ーー王候貴族の子弟に作法を教えるーーに厳しく仕込まれたのだろう。裾から少しだけ見える手首には包帯があった。私は少し遅れて言葉を返す。
「こちらこそ、本日はようこそいらっしゃいました」
始めこそ慣れない様子だった彼女も数週間ほど経てば、自然な笑みを浮かべるようになった。
私は心底安心した。そのはずなのにーー
「ですから、本日付けで国王陛下の妾となることが決定しました。即座に王城へ」
あのくそだぬきが。私よりも一回りは上の年齢のくせに。一年という約束は僅か一ヶ月で破られた。許せるわけがない。それが神殿全員の総意だった。そうとなれば話は早い。
幸い、神官は多国籍機関だ。
彼女は王国から一つ国を挟んだ所に隠されることになった。辺境ではあったが、決して貧しくはなく生活に不自由はしない村だ。神殿長の旧友が村長をやっているようで、彼女はそこに預けられることになった。
最後の日、私は彼女に青色のネックレスを渡した。御守りのようなもので、神頼みではあるがせめてもの手向けだ。彼女は渡したネックレスを着けるよう私に言った。なんだかどぎまぎしてしまったが、彼女は素知らぬ風に遠いところを見ていた。これから住まう地に思いを馳せているのか、はたまた故郷にか。彼女がどう思っていても、幸せに生きてくれれば私はそれで良い。
そういえば彼女が以前変なことを言っていた。将来双子を産むことになる。名前はメアリーとシユウ。あれはどうなったのだろうか。