2-4
――冷たくどこまでも堕ちていきそうな、闇。
わたしは、闇のなかにいる。あぁ、これは、遠い昔の記憶――
***
迫ってくる巨体。
恐怖で支配された体は言うことを聞いてくれなかった。
嗅いだことのない古びた獣の臭い。荒い鼻息。
わたしの瞳には涙が溜まって視界がぼやけていたけれど、男の姿は何故か鮮明に映っていた。
それは恐らく、毎日顔を見ていた上司だったからだろう。村から出てきたばかりで右も左も分からないわたしに、優しく、親切にしてくれた。
なのにどうして。
乱暴に両腕を掴まれて全身を壁に押しつけられた。
背中が冷たくて痛い。
ぎらぎらと獣の双眸が光っている。これは人間じゃない。人間の皮を被った、汚らわしい獣だ。獲物を捕らえた喜びに満ち溢れている。獣の荒くて臭い鼻息が顔にかかり、不快感が胃からせり上がってくる。
助けて!
叫んだのは心の中だけだったのか、実際に声を上げていたのか、今となっては分からない。
だけどごつんと鈍い音の後、そいつは場に崩れ落ちた。
暗くて狭い部屋に光が差したのに気づき、小刻みに震えながらも自由になった腕で涙を拭うと視界が開けた。
入り口には仮面をつけた背の高い軍服の華奢な男と、その後ろにもうひとり、仮面男に雰囲気の似た少年が立っていた。こちらは銀の刺繍が施された立派な衣装を着ている。
ここは軍の宿舎で、橙という名を冠している。さらにわたしたちがいるのは隊長室。警備面から一般の人間は入ってくることができない。
――だとしたら助けてくれた彼らは、誰?
考えていると仮面の下からくぐもった声がした。
「合唱隊の娘か?何でこんなところにいる」
綺麗で涼やかな、耳に残る声。訛りのない発音。それでようやく思い出した。見覚えがある。確か、王子様の側近。名前は思い出せないけれど、入隊式で姿を見かけた。
つまり、偉い人だ。
「が、合唱隊じゃ、ない。楽譜、読めない」
「では何者だ」
詰問ではなく、興味本位の問いかけだった。
「だ、橙隊の見習い」
「ほう」
仮面男が顎に右手を当てた。瞳の奥が光ったような気がした。
わたしはたどたどしくも説明する。
「先々月、入隊、した」
ちょうど村に軍の募集が来ていて、両親のいないわたしは、生きる糧を得る為に飛びついたのだった。試験の結果は散々だったらしいけれど、橙の隊長の見立てで合格して見習いにさせてもらえていた。
まさか、こんなことになるとは思いもしなかったけれど。
「あぁ、そういうことか。言われてみれば、ちっこいのを見たような気もするな。おい。こいつは橙の隊長だよな。除名でいいか?」
仮面男が振り返ってもうひとりに問いかける。ぼそぼそと小さな回答が返ってきた。許可を出した、ということは……後ろの少年は。
「そんでお前みたいな敬語のひとつも使えないガキは、こっち」
それからわたしの目線に仮面の目元を合わせて、ぽん、と頭に右手を置いて、わしゃわしゃと髪の毛を撫でてきた。小動物をあやすように。
さっきまでの不安や恐怖は吹き飛んで、もう大丈夫、という安心感だけがあった。
それがタスクと。
国王陛下との出逢い、だった。