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……これが、時計樹の化身がこの世界に生まれ落ちる方法。
ぱちぱちとリンが瞬きをしながら、自らの両手を見つめていた。虚ろな瞳に段々と意志が宿っていき、顔を上げると、わたしと視線が合った。
「ごめんなさい!」
それは初めて耳にするリンの声だった。少年特有の柔らかさのある響き。
リンは何度も何度も頭を下げた。
「お話しできなくて、ごめんなさい。本当は最初に説明をしなきゃいけなかったのに、びっくりさせて、ごめんなさい。えぇと、それから、それから」
その謝罪を遮ってわたしはリンに抱きつく。
「いいの。いいの、リン……ありがとう……」
優しく、甘い香りが鼻腔をくすぐる。懐かしい記憶と重なり、止まっていた涙が再びこぼれ出す。リンの肩に顔を埋めた。
するとリンがわたしの背中を軽く叩く。
「サラ、苦しい~」
思わず力が入りすぎていたようだった。慌てて体を離す。服にわたしの涙の跡がついてしまっている。
ごめん、と小さく呟くと、リンは首を横に振ってから照れたようにはにかんだ。
照れたようにはにかみながらリンが言った。
「お誕生日おめでとう、サラ」
歳を取ることに喜びを覚えたことなんてなかった。こんなに嬉しい誕生日なんて生まれて初めてだ。陛下もわたしの隣で軽く拍手をしてくる。
「サラ、おめでとうございます。もう21歳ですか……。月日の流れは、本当に早いものですね」
記憶が間違っていなければ、陛下の方が年下だったような気がするのだけど、と考えていると、陛下がすっと座った。
「先ほどの話にひとつ補足をさせていただきます。タスクの要求をすべて僕が飲んだ訳ではないのですよ。ひとつ条件を提示して僕たちは取引をしました。それは」
そしてわたしの視界を遮った。
「きゃ!」
リンの小さな悲鳴が聞こえると同時に、陛下の唇がわたしの頬に触れていた。そして吐息を残すようにして、耳元で囁いた。
「……サラ。君を僕の妻に迎えるという条件です」
不意打ちの攻撃!
せっかく落ち着いたところだったのに、急激に心臓の鼓動が早鐘を打つ。慌てて体を陛下から離すと勢いで腰から地面に座り込んでしまった。全身が熱くて、頬を両手で触ると火傷しそうだった。
一瞬前の囁きが幻だったかのように、陛下は屈んでわたしに目線を合わせたまま穏やかな表情で続けた。
「良家の令嬢よりも強い女性が好みでして。いいでしょう? タスクと顔は同じですし」
微笑んでいるけれど、到底本心だとは信じられなかった。
そうだ。このお方は昔から、こういう性格をしていた。
陛下はわたしが地面に置いた花束を拾い上げると、今度は人差し指でわたしの唇を軽くなぞった。
「今度、正式にお迎えに上がります。それでは」
姿が見えなくなるまで身動きがとれなかった。その間、リンが慌てふためきわたしの周りをぐるぐると走り回っていた。きゃーきゃーと騒いでいる。
『タスクと顔は同じですし』
だけど言葉は胸に刺さったままだ。
さっきまでの熱は一気に冷めて、どんどん血の気が引いていく。陛下が包帯を外したときに心の奥底から蘇った感情が、ゆっくりと全身を覆っていくようだった。
顔が一緒なのは当たり前だ。
タスクは、現国王陛下の影武者なのだから。
ただ、その顔を知っていたのはごく僅かの側近たちと、軍の中では――恐らくわたしだけ。普段は仮面をつけていた。
同じ顔のふたり。最後の作戦で、タスクは身代わりになって……。その作戦を計画して実行したのは、紛れもなく……。
いつの間にか握りしめていた右の拳から一筋の赤い液体が流れていた。
「サラ?」
消え入りそうな声でリンが呼びかけてきた。
はっと我に返る。心配そうにわたしを見上げている。
「何でもない、大丈夫。リン……」
「なぁに?」
「帰ろう、か」
左手を伸ばすと、リンも手を繋いできた。
考えては、駄目だ。そんなこと考えてはいけない。
一国の王を復讐相手にするなんて、そんな、ことは。
帰り道、ゆっくりと陽が沈んでいく。
血のような朱い色をした空に、わたしたちの影は長く伸びていた。しばらく無言で歩いていたけれど、意を決して尋ねてみる。
「リン」
「どうしたの?」
「リンは、最初からあの方が陛下だって判ってた?」
「うーん……なんとなく」
少し考えてから、肯定とも否定とも受けとれるような微妙な返事。
真実の主に対して呼応するような波長があるのだろうか、とぼんやり理解した。
「そっか」
だとしたら、もしもわたしが間違いを犯そうとしたら、この子は止めてくれるだろうか。わたしの前に立ちはだかるのだろうか。
陛下を守る為に。
「あのひと、きっと、悪いひとじゃないよ」
必死になって言うのが少し可愛らしい。見た目と同じくらいの幼い仕草に安堵する。正体が判っても、年齢が増す訳ではなさそうだ。
「そうだね」
頷きながらも、わたしは葛藤していた。
声には出さずに、リンに話しかける。
――だけど、あのひとは大義の為に、わたしから大切な存在を奪い去ったんだよ。自分の半身を、あっさりと手放したんだよ。
それでも、悪いひとじゃないって言えるの?