1-3
*
『ポットの口は先が細い方がいい。コーヒーは繊細な飲み物だ。まずは少しだけ熱湯を注いで蒸らす。
その僅かな時間で、自分が誰の為にコーヒーを淹れているか、その相手に想いを巡らせるんだ。一瞬がとても大事なんだ。
戦場でも同じ。
誰の為に戦うのか。どんな大義名分を掲げているのか。それがしっかりしていればいるほど、勝率は上がる。
そして、すべてが一瞬だということも』
……懐かしい声。優しい響き。
だけど、温かさに包まれても、それはすべて、夢。
夢だったということに落胆して、全身が沼に沈んでいるかのように重たく感じられた。
どうやらカウンターでうたた寝してしまっていたようだ。
店内は暗く、陽はとっくに沈んでしまっていた。慌てて身を起こして電球を点ける。乳白色の明かりがぽぅと店を照らした。
「しまった、晩ご飯の支度」
とりあえずリンを呼びに行こうと階段を上がっていると異変に気づいた。
……やけに静かだ。
嫌な予感が全身をざわざわと覆う。唾を飲み込む音がやけに大きく感じた。足音を立てないように静かにリンの部屋の扉の前に立つ。
おかしい。
人のいる気配が感じられない。
寝てしまったことを後悔する時間すら惜しく扉を開けるとそこにリンの姿はなかった。明かりを灯して、寝台と机と椅子しかない小さな部屋を隅々まで見渡す。机には学校で使う用具が整然と置かれていた。
寝台にも椅子にも、温もりは残っていない。
嫌な予感は的中し、部屋の窓が開け放たれていた。もう一度机の上に視線を向ける。
『リンは時計樹にいる』
走り書きの紙切れが、風に飛ばされないように重石を敷かれてぱたぱたとはためいていた。紙を手にとって犯人の痕跡がないか探してみるも、手がかりは得られない。
不思議と冷静な自分がいた。
何故ならば筆跡に悪意が感じられなかったからだ。逆に、これが何を指しているのか考えを巡らせる。
とにかく時計樹まで行けば犯人の目的は判明するだろう。
結局相手の手の内で踊らされる羽目になっても、誘いには乗った方がよさそうだ。
*
村のどこからでもその姿を一望できる常緑の大樹は、人間の歴史が始まる前から存在していたと言われている。
幹の太さは村人全員でも抱え込むことが難しい。うねりながら天に向かって成長していったのだろうか、樹皮は緩やかなカーブを描いている。所々が剥がれかけていて樹齢の古さが感じられた。
多い茂った葉は一枚一枚が人の顔ほどの大きさがあり、光を反射して青々と輝いている。花や実をつけることはないけれど、とても美しく、眺めているだけで心が穏やかに満たされていく。
この国の信仰では、亡くなったひとりひとりの魂が葉と成り、遺された世界を見守り続けると言われていた。
この世界の、そしてこの国の象徴。
ここへ来たのは、リンと出会って以来だ。
時計樹の周りにはかつて愛おしく感じた懐かしい甘い香りが漂っている。泣きたい気持ちをぐっと飲み込んだ。
今は感傷に浸っていい時間ではない。
幹の周りは、葉によって光が殆ど遮られている。心地よい風が頬を撫でる。木漏れ日が時々体を照らす。それはとても優しい光だった。
そっと幹に手を当ててみると、生きているような鼓動を感じることができる、……ような気がした。
幹に沿って歩いていると、覆面男が待ち構えていたかのようにわたしの姿を見つけて左手をあげた。
今日もいつもと同じ出で立ちをしている。
「ごきげんよう」
涼やかに話しかけてくる。
わたしは彼を睨みつけて、声色を低くして問いかけた。
「やっぱり貴方だったの。教えて、リンは何処? 目的は何?」
「その前にこれをどうぞ」
覆面男はわたしに近づくと、どこからともなく色とりどりの花束を差し出してきた。一輪一輪が大きく、鮮やかな色をしている。
反射的に受け取ってしまうと花の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「お誕生日おめでとうございます、サラ、さん」
「どうしてわたしの名前を」
名乗ったことなど一度もない。やはり、軍の関係者なのだろうか。
わたしの緊張が高まる一方で、覆面男は苦笑した。
「さん付けをすると違和感がありますね」
左手を握って顎の前にやる仕草に既視感を覚える。まさか、と判断する間もなく、覆面男は顔の包帯をするすると外した。
意志の強さを表す直線型の眉。
切れ長の瞳は、すべてを見透かすような深い色をしている。
薄い色の肌と唇。全体の線は細いのに、雰囲気は品格を感じさせた。
そして繋がった、すべてのことが。
わたしは花束を丁寧に地面に置くと彼に向かって跪いた。
「……これまでのご無礼、大変失礼いたしました」
「顔を上げてください。僕は貴女を詫びさせる為に喫茶店に通っていたのではありません」
「しかし、陛下」
そもそも背格好で気づくべきだったのだ。こんなところにいる筈がないという思い込みが選択肢を消してしまっていた。
よく見れば、民族衣装に施された銀の刺繍は植物の蔦をイメージした複雑で美しい模様。これは王家の人間しか身につけることを許されていない。
ということは、その正体は若くして即位した現国王――
つまり、あの人の――
心臓が、ちりちりと焦げるように痛い。ような、気がした。
忘れていた負の感情を抑えるように胸に手を当てる。唇を噛んで、わたしは陛下の次の言葉を待った。
「今日は貴女にもうひとつ伝えることがあります。タスクが貴女へ遺した、贈り物について」
その人名に弾かれるようにして顔を上げると陛下は幹を指差した。
今度こそわたしは言葉を失う。
時計樹の幹の、わたしの腰くらいの高さのところにぽっかりと大きな穴が空いていた。
その樹洞で丸まってすやすやと眠っていたのは、リンだった。
輪郭はぼやけて黄金に煌めいていた。まるで初めからリンがここにいたかのように時計樹との境界線はあやふやで、融けあおうとしているようだった。
理解の範疇を超えた現象だった。
いつの間にか陛下がわたしの横に立って、両腕を組んでいた。
「本来ならばこの子と貴女は、今日出逢うことになっていました。貴女の21歳の誕生日に」
陛下の口調には、遙か昔に失ったものを愛おしみ懐かしむような、ほんの少しの寂しさが滲み出ていた。
「貴女がリンと名付けた少年は、ご覧の通り時計樹から創られる存在です。代々、この存在は王家を影から支えてきてくれています。貴女もよく知る通りに」
よく知る通りに、と陛下が強調する。
知っている。よく知っているけれど。
ということは、つまり。
「国王が即位するときに時計樹の化身を創り出す儀式を執り行います。僕にも父のように選ぶ権利はありました。ですが、タスクは最期の願いとして、僕が冠を戴くときには新しい時計樹を貴女の傍にいさせてほしいと」
『サラはひとりでは生きていけないから』
あの人の――タスクの声として、言葉が脳裏に蘇る。
「彼の初めての望みでした。僕は了承しました」
もうわたしには陛下の言葉をただ黙って聞くことしかできなかった。
「時が来れば自然とこの少年は時計樹から離れて貴女の元へ向かう予定でした。
ところが貴女が帰郷した際、どうした訳か未熟なまま生まれ落ちてしまった」
涙が溢れ出て、鼻水も垂れて、とにかく顔がぐしゃぐしゃになっているのが自分でもわかる。鼻の頭が熱を持って、いや、全身が熱くて、わたしはなりふり構わず袖で顔を何度も何度も拭った。
「時計樹の様子を確認しにきた折、僕はその事実を知りました。
そして貴女の住まいを密かに伺い、少年と出会いました。彼が言葉を発することができなかったのは、未熟なままだった為です。
それを知った僕は少年に近づいて、そしてここまで連れてきてあげました」
顔を上げると、陛下が子どものように、
「『気をつけて』というメッセージは貴女に心構えをさせる為でした。一方で僕の悪戯心でもあります。驚かせてすみません」
タスクと同じ顔で微笑んだ。
「さぁ、もうすぐです」
陛下が指差す。きらきら。樹洞の煌めきが一層増していく。
――誕生の瞬間は荘厳なものだった。
リンの輪郭が次第にはっきりと戻ってきて、瞳が瞬きを数回繰り返すと、ゆっくりと上体を起こす。すとん、と地面に降り立つ頃には光は消えてしっかりと大地を踏みしめていた。