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こぢんまりとした店内にたゆたうコーヒーの香りが好きだ。
喫茶店を開いたのは1年前。異国の香り漂う飲み物は村の人々には珍しいらしく、客は滅多に訪れない。
来てくれたとしても、その黒い色や痺れる苦さを嫌がって、2回目以降は違う飲み物を注文されてしまう。
だから毎日、練習ばかりになってしまう。
不思議なもので香りも味もその日の感情によって左右されるから、自分自身の気持ちを知るのに役立っている。淹れたコーヒーを飲みながら、ぼんやりと窓の外に遠く映る時計樹を眺めるのも同じく日課だ。
時計樹――辛く苦しい戦いの終わったこの国で、何一つ変わらず存在している、常緑の大樹。
見つめていると、人間というのは本当にちっぽけな存在なのだと再認識させられる。
どんなに憎み合って殺し合ったとしても、時計樹からしてみれば些細な営みのひとつにすぎない。
わたしのことについて。
名前はサラという。今度の誕生日で21歳になる。
好きなものは、コーヒー。
この村で産まれ育ち、戦争に行って帰ってきた。あとはうまく説明することができない。自分のことは未だによく分からない。強いて言うなら、平均よりも背が高いのが若干悩みでもある。
そうだ、悩みといえば、もうひとつ。
かららんと扉につけてある古びた鈴が、自分の仕事を思い出したかのように鳴った。現れた客の姿を確認して小声で呟く。
早速、来た。
「……いらっしゃいませ」
悩みの種。顔面を包帯で覆った男性客。
ここ数日、決まった時間にやってきては無言でコーヒーを1杯だけ飲んで帰って行くのだ。
最初にメニュー表のなかからコーヒーを指さしたので、ずっとコーヒーを出している。だけど会話をしたことはない。
支払いはきちんとしていくけれど少し気味が悪く、彼が去った後はもやもやとした感情に襲われる。どこかで会ったことがあるような気がするけれどそれがどこだったのか思い出せない。
もしかしたら思い出したくない場所で出会っていたのかもしれない。
「お待たせいたしました」
カウンター越しに客へコーヒーを差し出すと、彼は軽く頭を下げて、包帯の隙間からカップに口をつけた。
包帯で覆われているのは頭部のみで、身につけているものはごく一般的なこの国の民族衣装だ。
黒色を基調とした、上下に分かれた衣服。
上着の裾に銀色の刺繍が細かく施されていることからそれなりの身分だと推測できて、気味の悪さを助長していた。
彼と視線を合わせなくて済むように、俯いて空のカップを磨く。
わたしの背後、壁側には色とりどりのカップとソーサーを展示するように並べてある。この中から客の雰囲気に合わせて選ぶようにしているのだけれど、まだすべてに出番が来たことはない。
磨いたカップを元に戻す為、客に背を向ける。
するとその瞬間を狙われていたかのように話しかけられた。
「帰る僕と入れ違いに店内に入って来るのは、失礼ですが、店主のお子さんですか」
聞き覚えのあるような澄んだ声だった。耳に心地よく残る落ち着いた音。
びっくりして勢いよく振り向くと、作業スペースに置いていた調理道具や容器ががちゃんと床に落ちた。
「す、すみません」
しゃがんで拾い上げる。
中に何も入っていなくてよかった。
「いえ、こちらこそ急にすみません。驚かせてしまいましたね」
包帯男は穏やかな口調で話しかけてくる。
はい、と言ってしまおうかと思ったけれどそこは堪える。
最初の発言に対して適切な返答を頭のなかでいくつか考えて、慎重に選んだ。
「お客さま、よくご覧になられていらっしゃいますね」
……一度も顔を合わせたことのない、彼のことを。
最大限の皮肉と疑惑を込めたのに相手はさらりと受け流してきた。
「彼の瞳の色が珍しいと思いまして。この国で金色というのはなかなか見かけませんからね。一方で店主の瞳は綺麗な……そう、燃えさかる花のような紅い色をしていますし、遺伝の組み合わせとしては不思議に感じました。それで気になったものでして」
それは受け流したのではなく、寧ろ反撃。
手がかたかたと小刻みに震えていた。
動揺しているのを悟られないように視線は床に向けたまま考える。
『燃えさかる花のような紅い色』
その言葉はかつてわたしを称する言葉だった。
つまりこの男はわたしが何者であったかを知っているということなのだ。
深呼吸。
すべて拾い終わり、顔を上げた。カウンター越しに、真っ正面から包帯男を見据える。
彼の表情は全く読めない。どの程度の悪意があるか、口調から判断することも難しい。
「あの子は戦災孤児です。時計樹の下で拾いました。詳しいことは分かりません」
それならば言葉の応酬はしない。相手の誘いには乗らない。
この村に戻ってくることを決めたときに自分に課したルールだ。穏やかな生活を送る為に必要なこと。
答えは事実だし、金色の瞳の少年――もうすぐ青空学校から帰ってくるだろう、幼い同居人は多くを語らない。
だからわたしは何も聞いたことはない。
戦争は国民を疲弊させた。
皆、これまでの生活を取り戻すのに必死なのだ。
戦災孤児を育てているのがせめてもの罪滅ぼしだと人に言われればそれまでかもしれないけれど、わたしにとっては今守るべき存在が彼だった。
包帯男はわたしが応戦しなかったことに対して目を丸くした。やはりわたしのことを知っている。
戦争中のわたしは血気盛んだったから、昔のままなら言い返していただろうから。
包帯男がこほんと小さく咳払いをした。
「それは失礼しました。店主もお若そうなのに立派ですね」
「いえ、そんなことは……」
「一度彼とも話をしてみたいものです。それでは、今日は失礼します。ごちそうさまでした」
わたしは立ち上がった客の手元を見遣り、慌てて呼び止めた。
「ちょっと待ってください。お金が、多いです。お釣りを」
「これは店主を困らせた迷惑料としてお受け取りください」
「ちょ、ちょっと!」
本来ならば銅貨1枚の飲み物代。
それなのに包帯男は紙幣を置いて立ち去った。かららん。扉が閉まりその姿が見えなくなると、思わず安堵の溜息が漏れた。
彼がわたしを知っているのは明らかだ。目的も読めないし、迷惑料を払うくらいならもう来ないでほしかった。
テーブルを片づけようとして、小さく折り畳まれた紙幣を手に取った。広げて、二度見した。そしてはっと息を呑む。ざわりと背中を重たく冷たいものが走った。
紙幣にはメッセージが記されていたのだ。
『気をつけて』
簡素な内容、警告。急いで外に出たけれど包帯男の姿はなかった。
「なんなの……一体」
その代わりに遠くから歩いてきたのは、金色の瞳の少年。リンだ。青空学校から帰ってくる時間は決まっていて、絶対に包帯男と顔を合わせる筈はない。
どうして包帯男はリンのことを知っていたのか。故意に見ていたとしたら、完全に『クロ』だ。
リンの背丈はわたしの腰より少し低いくらい。じっと見上げてきた。
「お帰りなさい、リン。ところで頭に包帯を巻いた男の人を見なかった? お客さまなんだけど、お金を多く貰っちゃって返したいの」
平静を装って微笑みかける。
リンは少し考えてから困ったように首を横に振った。薄茶色の髪が揺れる。確かにこの見た目は珍しい。村人の多くは茶色い髪と瞳をしているし体格もいいから、目立ちもするだろう。
買ってあげた民族衣装もまだぶかぶかで、まるで服に着られているようだ。
リンが包帯男に見られていると気づいていないことに、不安は拭えない。けれど、危害を加えられていないのなら安心だ。
「お腹空いたよね、今お昼ご飯つくるね。家に入ろうか」
喫茶店の扉を開けてあげる。元気よくリンが店内に飛び込んで、いつものようにカウンター席の真ん中に腰かけた。
背負っていた鞄から宿題を取り出して、わたしが用意する間に済ませようと何かを書き始める。
わたしは野菜を刻みながら包帯男の残したメッセージについて考えを巡らせる。身に覚えがないかと問われれば答えは否だけれども、何故このタイミングで警告を受けなければならないのだろう。
彼は明らかにわたしのことを知っていた。
一体、いつ、どこで出会っていたのか。敵なのか、味方なのか。記憶に蓋がされているかのように、どうしても思い出せない。
「痛っ」
すると鋭い痛みが指に刺さった。野菜と一緒に指を切りかけていた。考え事をしながら刃物を扱うべきではなかった、と溜息をつく。ほんの少しだけ赤い血が滲んだ。
視線を感じると向かいでリンが顔を青くして目を丸くしていた。リンは慌てて椅子の上に立ち上がり、わたしの左人差し指をタオルの上からぎゅーっと握ってくれた。
咄嗟の行動に驚きつつも優しさに緊張が和らぐ。
「ごめんね、ありがとう。そんなに大した傷じゃないから」
リンは口をへの字にして、首を横に振った。わたしが頑なに大丈夫だと言い続ければ瞳に涙を浮かべかねないだろう。
……この子との生活を守る為には、行動を起こさなければならない場面がやってくるのかもしれない。
温もりをタオル越しに感じながらわたしは小さく息を吐いた。