墓標
一方その頃、リュッカは3-5の教室にいた。
習慣というものはおそろしく、全くの寝不足だったにも関わらず、リュッカはいつもどおりの時刻に目覚めた。コノエを起こさないよう、そっと救護室を後にすると、身支度をすませて朝食そして日課の訓練。午前のスケジュールを終えて、待機のため教室へ戻ってきた。
南から差し込む日差しが、机の上に桟の影を落とす。どことなく埃っぽい空気。訓練に励む少女たちの声が遠く聞こえる。
この教室へ入るのは、これでようやく2度目である。扉を開けた瞬間の静けさに、リュッカはなんともいえない寂しさを感じた。
つい昨日のことだ。リュッカがこの部隊に配属されて、コノエやルリ、隊の仲間に迎えられて――。
しかし今はリュッカ1人が、大きな教室の中に立っているだけである。
「私の席、どれだっけ」
誰もいない教室に、独り話しかける。本当は自分の席の位置もしっかりと覚えている。最前列、コノエのとなりだ。ただ、あまりの静けさに耐えられなかった。
そっと椅子を引いて席に着く。ひんやりと冷たい。頬を机につけて、ぼんやりと外を眺める。青い空。白い雲。透明な風。
ふと、机の上に小さく文字が彫ってあることにリュッカは気がついた。以前この教室に来たときには気づかなかったものだ。
「ゆう・・・・・・ほし?」
机の右端、手前側に可愛らしい丸みを帯びた書体で「夕星」と刻んである。
リュッカは気になって、外の机も確認する。隣の――つまりコノエの席には、何も刻まれていない。その隣、ルリがいた席には、大きな字で「瑠璃」と彫ってあるほかにも、「皐月」「零香」の文字。後ろの方の机まで全部見て回ったところ、ほとんどの机に3から4つの名前のようなものが刻まれていた。中にはマジックで書かれたものもあった。
刻まれた名前の意味は、リュッカにもおおかた見当はつく。ただ、コノエの名前がない理由がわからない。
教室の前側の扉が音を立てて開いた。コノエが入ってくる。
「ああ、リュッカ」
何か言おうとしたが、言葉にならない、そんな顔をしている。
「もう体は大丈夫なんですか?」
「リュッカおかげで、一瞬で完治したみたいだ。感謝してる」
そう言って、コノエはギプスで固められた左腕を軽く動かしてみせる。ほとんど使い捨てたと思っていた左腕だが、今では痛みもなく、コノエ自身も信じがたいことに、どうやら完全に復活したようである。それも一晩のうちに。
「まあ、まだギプスはとれてないけど、全然痛くないし。これでまたすぐに戦える」
「それは・・・・・・よかったです」
正直喜んでいいのか、リュッカは複雑な気分だった。
「あの、隊長は魔獣と戦いたいと思ってるんですか?」
「ここに来るのは皆そういう奴ばかりだと思っていたが」
魔法少女は志願制、すくなくともこの基地に来る少女たちは、皆戦うことを望んでやってくる。そういう少女たちを見てきたコノエにとって、リュッカの問いは新鮮なものだった。
「魔獣と戦うことを望かって言われると・・・・・・多分そうじゃない。確かに私も皆と同じように魔獣の襲撃で家族を失った。でも戦うのは復讐のためじゃない」
「憎くないんですか。奴らが」
「そりゃあ憎いさ。でも復讐を目的に戦う気にはなれない。――見ただろう? この基地の子は皆自分の身を顧みない」
リュッカの脳裏に、魔獣の群れに果敢に飛び込み、そして死んでいった魔法少女達の姿が蘇る。
「もちろん、この基地に来てすぐの頃は、私もここで死ぬ覚悟だった」
「それは・・・・・・私も同じです」
「そうだろうな。そもそも生きて帰れるような所じゃない。でも」
そう言って、コノエは自分の席に座った。机の表面を優しく撫でる。
「でも、何ですか?」
コノエは答えない。
指先で机の上をなぞるコノエを見て、リュッカは思い出したように尋ねた。
「そういえば、この机に彫ってある名前? のようなものは」
「その通り。名前だよ。この教室、この部隊にいた子たちの」
表情ひとつ変えずに過去形を使うコノエ。立ち上がり、ルリのものだった机を示す。
「ルリのことは知っているだろう? それからサツキはルリとは真逆みたいな奴だった。レイカは赤いメガネをかけててな、耳が良かった」
「皆、知ってるんですか」
「ここに名前が残ってるのは、私が隊長になってから来た子たちばかりだからな」
机の間を縫いながら、刻まれた名前を眺めてまわる。
「墓標みたいなものかな。どうせちゃんとしたお墓なんて作ってもらえないんだし、生きた証拠を残したくもなる」
「お墓、ですか」
リュッカは正直何も考えていなかった。自身が死んだ後のことについて。しかし、自分の机について刻まれた「夕星」の名を見て思う。自分が死んでも何も残らないのだと。家族も、友達ももういない。
「今、わかった気がします。誰からも忘れられるのは、寂しいですもんね」
「お前も作っておくか? 自分の墓を」
そう言いながら、コノエは自分の机の中から小刀を取り出した。木製の柄に掠れた文字。持ち主の名前か。
「元はといえば、私とユヅが始めたことでね。備品を傷つけるのはマズいかもと思ったけど、どうせ私たち以外使わないんだし」
小刀を差し出すコノエ。しかしリュッカはそれを受け取らなかった。
「私は・・・・・・やめておきます」
「何故だ?」
そうは言いつつも、コノエの目は満足そうだ。
「ここでは私、死にません。今回の出撃では――隊長のおかげで生き残りました。次も、その次も生きて還ります。自分の力で」
「それでいい。リュッカ、お前は私に似ているかもしれないな」
「そ、そうですか?」
歩み寄り、リュッカの前髪をかき揚げるコノエ。くすぐったそうに目を瞑る。
「生への執着は即ち強さだと思う。・・・・・・いや、どちらかというとユヅに近いか」
「ユヅ? それは、だれですか」
「私の友達で、一緒にこの基地へ来て魔法少女になった。ほら、お前の前任者だ」
コノエが指差す先には、リュッカの机の上。「夕星」の文字。
「ユウヅツ、と読むらしい」
「隊長と一緒に入ったってことは、結構前の事ですよね。長い間頑張ったんですね。ユウヅツさんは」
「頑張ってはいなかったな。立ち回りがうまい奴だった」
机に刻まれた溝を指の腹で感じながら、リュッカは決心した。
「私、ユウヅツさんの分まで頑張って生きて」
するとコノエは言葉を遮るようにリュッカの唇に人差し指で触れた。
「その言葉は嬉しいが、ひとつ訂正だ。ユヅまだ生きている」
「・・・・・・えっ、じゃあなんで」
私がここに。そう言いかけてやめた。無意味な言葉だ。可能性はふたつ。死なずに姿を消したか、コノエが彼女の死を認めていないか。リュッカに必要な事実はひとつだけ。ユウヅツの代わりに配属されたということ。
「ユヅはいずれ還ってくる。必ずだ」
コノエが机に名前を刻まなかった理由。彼女はまだ死ねない。死ぬわけにはいかない。墓など必要ないのだ。
「ユウヅツさんはなんで消えたんですか?」
当然の疑問だが、コノエは答えてはくれなかった。
「しばらくは出撃もないだろうから、休めるうちに休んでおいた方が良い」
そう言い残すと、コノエは教室を出て行った。リュッカはまた1人残された。しかしはじめに感じた寂しさは、不思議と消えていた。
日は高く昇り、相変わらず窓際の机を照らしていた。