吸血鬼は遅刻する
今振り返ると、僕は最初から最後まで馬鹿だったと思う。
僕と彼女が初めて会ったのはクリスマスも終わりに近づき、にぎやかだった街が閑散となり始めた頃だった。人々は周囲に目を向けることもなく、楽しそうに笑って家路につく。その中で彼女は、1人路地の隅でうずくまり嗚咽を漏らしていた。
僕はたまらず彼女に声をかけた。言っておくが、僕は女性の涙が苦手なのであって、決して下心があったとか、彼女の髪が街灯に照らされ綺麗だったから思わず声をかけてしまったとか、そういうことではない。
吸血鬼は紳士であるから、優しく穏やかに彼女に寄り添った、つもりである。
「お嬢さん、こんな所でどうしたんだい。こんな寒さではせっかくの涙も凍えてしまうよ。」
「…ありがとうございます。でも、大丈夫ですので…。」
「そんなに震えているのに大丈夫なもんか。どこか暖かいところへ移動しよう。話はそれからだ。」
何度も言うが、この時私に下心はない。あるのは紳士としてこの女性の憂いを晴らしてあげたいという思いだけだ。決して彼女の瞳が僕と同じ色で運命を感じたわけではないので、そのへんは誤解しないでほしい。
うずくまったままの彼女に立ち上がるよう促し、自然な足取りで僕の家へと招いた。彼女は僕の髪色を見て吸血鬼だと気づいたみたいだったが、何も言わずについてきた。
「それで、君はどうしてこんなに凍えるまで外で泣いていたのかな。」
暖炉に火を点け、彼女が座っているソファの隣へと腰をかける。手に持っていたコーヒーを差し出すと、彼女は小さくお礼を言った。
「その、お恥ずかしい話なのですが、一緒に住んでいた彼に浮気されて、それを問い詰めたら出ていけと言われたんです。でも私、行く宛がなくて、それに彼のことも愛していたから悲しくて、加えて今日はクリスマスなのにって思ったら涙が止まらなくて…。」
この時僕は、この世にはそんなに女を見る目がない男がいるのだと心底思った。僕だったら、こんな素敵な彼女がいれば浮気どころか1歩も家から出ないだろう。
「その、ありがとうございました。あなたに声をかけて貰えなかったら、私あのまま死んでたわ。」
彼女が僅かに微笑む。僕はここで紳士らしく彼女の苦労を労わなければならない。労わなきゃいけないのだが、僕にほんのわずかにある紳士ではない部分が僕にポロッと本音をこぼさせた。
「寒空の中凍える君は捨てられた子猫のようで放っておけなかったんだ。こんなに素敵な夜にこんな素敵な女の子を振るだなんて、その男は本当にもったいないことをしてるな。」
「ありがとう、褒めるのが上手なのね。」
「お世辞じゃないよ。でも僕はその男に感謝するよ。彼がそんな暴挙を起こさなきゃ、僕は君に出会えてなかったんだから。僕は今宵君に会えたのは運命のような気がしているんだ。」
彼女がぽっと頬を染めた。彼女の細い手を取り、ソファに座る彼女の前に跪く。僕と同じ翡翠の瞳と見つめ合う。
「君の最悪な夜を、僕が塗り替える許可をくれないか?」
「だめよ、だって私たち今日出会ったばかりだし、それに名前も知らないわ。」
「僕の名前はアーロン。君の憂いを晴らしたい。もし許可してくれるなら、君の名前を教えて。」
彼女は少し視線をあちこちにさ迷わせたあと、小さな声で名前をこぼした。
「ユニス、」
こうして僕と彼女の恋は始まったのだ。
彼女は僕が吸血鬼であることを大したことじゃない、私も家族に見放されてる身だからお似合いね、と笑い飛ばして、一緒に暮らしてくれた。
おはようからおやすみまで彼女がいる生活はまさに夢のようだった。彼女も初めて会ったあの日の憂いが嘘のように、毎日幸せそうに笑っている。
「ユニス、今日は隣町まで買い物に行こう。君に似合いそうな服を見つけたんだ。」
「いいわね、行きましょう!でも仕事が終わってからだから、お昼に広場で待ち合わせでもいい?」
「もちろん。君と一緒に買い物に行けるなら何時間でも待つよ。」
彼女はそれを冗談だと思ったのか、おかしいと笑った。それから、何かを思い出したようにぽつりと呟いた。
「あなたといると、デートの時の遅刻の心配がなくていいわ。」
「その言い方だと、前の彼は遅刻ばかりだったのかい?」
「ええとっても。時間通りに来たことなって一度もなかったわ。毎回5分遅刻よ!って怒ってからデートが始まるの。それに比べたら今は最高よ。」
「君に5分遅刻よ、なんて言われて許される彼が憎いよ。」
「あなたが遅刻したら同じことを言うわ。」
「馬鹿なことを言うな、僕が君を5分も待たせることなんて一生ない。」
その時の彼女の嬉しそうな笑顔を僕は一生忘れないだろう。彼女は約束よ、と言って小指を絡めた。約束を破ったら、針千本飲むことになるんだそうだ。僕は吸血鬼だから飲んだところで死なないだろうけど、彼女が悲しむから絶対に遅刻はしないと誓った。そう言うと彼女はまた笑みを深くした。
彼女と過ごす日々は本当に穏やかだった。しかし、その幸せな日々もそう長くは続かなかった。
嵐が近づき、空が唸って不気味な夕方に、彼女は顔色を悪くして帰ってきた。
聞けば、彼女は下級貴族の人間だったらしく、両親に家に戻って結婚するように言われたらしい。どこからか、娘が吸血鬼と暮らしていると聞きつけたらしく、明日にでも連れ戻しにくるということだった。
「逃げようユニス。僕たちのことを知らない場所に逃げよう。東の国に当てがあるんだ。」
「ごめんなさいアーロン、それはできないわ。私、家族を裏切ることなんてできない。」
「それは僕より家族をとるってことか?今まで散々邪魔者扱いして、必要な時だけ家に連れ戻そうとするような家族のほうが大切なのか?」
「違う、あなたの方が大切に決まってる。でも、あなたを家族に認めてもらいたいの、そのために私は家に
戻るわ。」
「馬鹿なことを、家に戻ったら結婚するまで出してもらえないに決まってる。僕に君がほかの男と結婚するところを見ていろっていうのか?」
僕は目の前が赤くなっていくのがわかった。彼女にこんなに憤りを感じたのは初めてだったし、彼女が僕にここまで強く反論することも初めてだった。彼女が僕から離れて行ってしまうと感じた。そんなの耐えられない。
「私は結婚なんかしないわ!あなとの付き合いを認めてもらいに行くのよ!」
「吸血鬼との付き合いを認める家があるわけないだろう。君は選ぶしかないんだよ。僕か、家族か。」
「あなたを選ぶわ。でも、家族のところへは行く。」
「それは家族を選んでいるということなんだよ、ユニス。」
我ながら消えてしまいそうな小さな声が出たなと思った。もうこの時には彼女の顔を見ることはできなかったから、彼女がどんな表情をしていたのか、僕には想像もできないが、彼女は耐えられないといわんばかりに家を飛び出して、それから帰ってくることはなかった。
それからしばらくして、彼女に結婚の話が持ち上がっているという噂を聞いた。やはり彼女も、貴族の世界では無力なのだと思った。
そして彼女の結婚が現実になる前に、僕は街を出た。
なるべく遠くに、彼女との思い出がよみがえらない様な場所まで行かなければ死んでしまいそうだった。
彼女の面影がない場所まで逃げたしたものの、僕の気は一向に晴れなかった。僕ではなく家族を選んだ彼女に腹が立っていたのもあるが、一番腹が立っていたのは彼女を信じきれず逃げている自分だった。彼女の元へ戻って謝ろう、と毎日のように思いながらも足はもっと遠くへ行こうと歩き出す。
結局、どんな街並みも景色も出会った人々も、彼女を忘れるには足りないものばかりだった。
あれからどれくらい歩いたのかもわからない。でも、そろそろ疲れてしまった。あれから何年たったのかも覚えていないが、限界だった。僕はもう彼女がいなければだめなんだということにようやく気が付いたのだ。どんなに遠くへ逃げても、彼女と見た空はいつまでも僕を見下ろすし、コントロールできない夢には彼女が毎晩出てくる始末だ。
彼女が結婚していたとしても彼女をあきらめることもできないけど、一目でいいから彼女に会いたかった。
そう思うまでに、ずいぶんと遠くまできていたらしい。彼女が居た街につくのに思ったより時間がかかってしまった。そのせいなのか、街並みも、人々もずいぶんと変わっていた。
お昼時だからか、忙しそうに駆け回る女性に声をかけると、僕の黒髪を見て顔を引きつらせた。どうやら吸血鬼を差別する風習は変わらないらしい。
「あの、訪ねたいのだが、この街に住んでいるユニスという女性を知らないか。」
「ユニス?あぁ、この坂の上に家を持っていた貴族のとこの娘のことかい?あそこの貴族は没落してから行方知れずさ。」
「没落、」
「もう何十年も前の話さ。そのユニスって娘が結婚しなかったことがきっかけだって噂だよ。」
その時の僕の絶望は計り知れなかった。彼女は結婚していなかったのだから。それに僕は大切なことを失念していた。吸血鬼は人間よりも長生き、つまり吸血鬼と人間は時の流れが違うのだ。僕が何も考えずに彼女から逃げ出している間に、何十年も経っていた。今じゃ彼女がいる場所どころか、生きているのか死んでいるのかもわからない。
打ちひしがれる僕の背中に、しわがれた女性の声がかかった。
「あんた、ユニスを探しているのかい?」
振り返ると危うい足取りで、懸命に杖を突く老婆がいた。どうやらユニスがこの街にいる頃からいるようだ。ということはユニスももうこの老婆と同じくらいの年齢になっているのかもしれない。
「ユニスを知っているのですか。」
「あぁ、あんた吸血鬼だろ?ユニスはこの街を出て行くその日まで吸血鬼を探していたよ。」
固まる僕のことなんておかまいなしで老婆は言葉を続けた。
「それに、街を出てからはその男がいるかもしれないからと東の国へ行くと言っていた。もしかして、ユニスが探していたのはお前さんのことじゃないのかなと思ってさ。」
まぁ、私がまだ子供だった頃の話だから、今はどうかわからないけどね。と老婆は笑った。
僕は老婆の話を聞いてたまらなくなった。彼女は僕のことを信じてくれていたのに、僕はなんて愚かなことをしてしまったのだろう。老婆は行ってみな、と僕の背中を押したが、僕は彼女に会うことが怖くなっていた。僕にとっては昨日のことのように思い出される出来事も、彼女にとってはもう忘れ去られた出来事かもしれない。考え出すと止まらないが、僕の足は自然と東の国へと向かっていた。
そうしてようやく見つけた彼女は、最後に見た彼女とはお世辞にも同じとは言えなかった。皺の増えた顔や手、きれいだったブロンドは少しくすんでいる。時折目を開けて外を眺めるが、ほとんどは瞳を閉じて今にも永遠の眠りにつきそうなほど穏やかだった。
彼女は東の国の田舎町にひっそりと暮らしていた。数年前までは働く母親達に替わって子どもたちの面倒を見ていたらしいが、ここ最近は体力も落ち、小さな一軒家で過ごしているそうだ。
窓から差し込む太陽の光を浴びて目を閉じている彼女は年こそ重ねたものの、僕の知っている彼女と一緒でとても美しく、胸が詰まった。
僕が逃げている間に、君はどれくらいの困難に立ち向かい、どれだけ僕を探してくれていたのだろうか。
ごめん、ごめんよユニス。君を待たせないと誓ったのに、約束を破ってしまった。君は結婚しないという約束を守ってくれていたのに。家族じゃなくて僕を選んでくれていたのに。
針千本でもなんでもするよ。だから、どうか彼女の残りの人生は幸せにすごせるようにしてくれないか。
僕は今まで一度も信じたことがなかった神様に祈った。
どれくらい経ったのか、時が止まったのではないかと思うくらいに彼女を見つめていた。
ふいに初夏の風が彼女の髪を揺らすと、彼女の瞳がゆっくりと開き、庭に佇んでいた僕へと向けられた。
まるでそこに僕がいたことなんてとっくに分かっていたみたいに。
そして僕の情けない顔を見て、あの頃と変わらない嬉しそうな笑顔を見せた。
「アーロン、5分遅刻よ。」