慈愛
ソフィアは貴族の家に生まれた。ソフィアの地味な容姿と寡黙な気質を愁いた母は、幼少の彼女を祖父のもとに預けた。そして、武勇で名をはせた祖父のもと、女だてらに剣をとり、鍛えられてきた。そのことで、家族を恨んではいない。自分の容姿では社交界を器用に生き抜くのは無理だから、ほかの選択肢を作ろうとしたのだ、と解釈している。そして、ソフィアは無口で厳しい祖父が好きだった。熱心に剣を振るソフィアを、祖父は認めてくれた。産まれて数年、幼な心に感じ続けていた疎外感が、祖父のもとでは和らいだ。そしてソフィアは剣にのめり込んだ。
そのあとが残る無骨な手のひらを見て、ソフィアは小さくため息をつく。
ソフィアには婚約者がいた。同じ家格の侯爵家の嫡男であるエドモント。同い年の彼と出会ったのは、七年ほど前のことである。
その日は第二皇子の誕生を祝う会であった。例年よりも盛大に行われた会に、ソフィアも出席を余儀なくされた。人と話すのが苦手な上に、共に出席するのはそれほど打ち解けていない両親。出席する前から、憂鬱であったのは言うまでもない。だが、まったく社交をせずに生きていくわけにはいかないのだから、少しは慣れておきなさいと母に言われ、その言葉に自分への気遣いを読み取ってうれしくなったソフィアは、出席を決意した。
案の定、会の当日はソフィアにとって苦行の連続であった。両親がそばにいる間はまだましだった。大人たちの社交辞令を聞き、時折視線を送られるときに礼をとったり、頷いたりすればよかったからだ。ソフィアに対して声がかけられるのは、せいぜい名前や歳などへの問いだけだった。だが、子供だけで遊ぶ、という段になってソフィアはまごついた。
きっとほかの子供たちは、第二皇子への接近を期待されているのだろう。何とかして第二皇子の目に留まろうと貪欲に行動している。同年代とは思えないその行動に、ソフィアは動揺した。自分にそのような期待はかかっていないだろう。両親からは、社交に慣れなさいと言われただけだ。それは情けないようにも感じたが、両親が自分の性格を理解してくれていることに安心してもいた。だからこそ、何とか両親に恥をかかせない程度にこの場を乗り切りたいと思った。肉刺だらけの手のひらを手袋で隠し、慣れないドレスと細い靴を履いたソフィアは、できるだけ気配を消そうとした。
その日は晴天だった。王宮の庭に設えられた豪奢な席で、最上級の茶と菓子が振舞われた。人目を引かぬよう、音をたてぬよう、ソフィアは細心の注意を払った。しかし、緊張がすぎると失敗を起こすものである。震える指で持ち上げたカップが揺らぎ、指先に茶がこぼれた。あ、と焦ったときには時すでに遅く、茶色いしみが手袋に広がった。ソフィアは慌ててカップをテーブルに置き、机の下に手を隠した。
きっと自分に注目していた人などいない、だから恥をかいてなどいない。ソフィアはそう自分に言い聞かせ、心を落ち着けた。しかし、その判断の甘さを思い知らされたのは、ものの数十分ののちであった。
「ねえ、みっともないと思わなくて?」
「あの茶色い髪?私もそう思っていましたの」
くすくすという笑い声とともにそんな言葉が聞こえたのは、第二皇子の誕生日を祝って作られた彫刻を見に場所を移そうとしたときである。周りには聞こえず、自分には聞こえる絶妙な音量のその会話は、同年代の数人の少女によるものだった。美しい金髪を陽光に遊ばせながら、少女たちは笑った。
「私、見てしまいましたの。さっきお茶をこぼしていたところ」
「まあ、野蛮ですわ。マナーも身についていないのかしら」
「どこの下級貴族かしらね」
「あれでも侯爵家らしいわ」
「本当に?信じられない」
「出来が悪すぎて家を追い出されたって噂よ」
「あんな娘を持って、ご両親も大変でしょうね」
くすくす、くすくす。それぞれの親を真似たのか、気取った口調で蔑みの視線を送られ、ソフィアは思わず身を固くした。そして指先を握り込む。茶色いしみを、隠すように。恥をかかせてしまった。自分の容姿と性格でも、新しい居場所を見つけるよう、貴族社会で生きられるよう、気遣ってくれた両親に。
「大丈夫?」
小柄な少年がソフィアの前に現れたのは、その時だった。彼は少女たちの視線からソフィアをかばうように立ち、ソフィアの顔を覗き込んだ。そっと差し出されたハンカチに、自分が泣いていたことを気づかされた。慌てて自分のハンカチで涙を拭き、頭を下げる。
「みっともないところをお見せして、申し訳ありません」
みっともない、そう自分で言ったことによって、先ほどの少女たちの会話が思い出される。また溢れそうになる涙を、ぐっと奥歯をかんでこらえた。それでも抑えきれない涙が、目の端に滲んだ。
「みっともなくなんかないよ」
少年は優しくソフィアの目じりをハンカチで拭った。
「どうしても泣きたいときって、泣いたほうが良いんだって。私も、泣いちゃいけないところ、弟なんかの前では泣かないけど。辛いときは泣いて良いところに行って、泣くんだ。母上とか、兄、みたいな人、のところとか」
そう言って少年は照れくさそうな表情を浮かべた。
「父上からは情けないって怒られることもあるけどね、その方がバランスが取れるって言われたんだ」
よくわからないけれど、そう信じているんだ。少年はそう笑った。
「君には、そういう人はいる?」
ソフィアはその意味を少し考えて、首を振った。泣いても良いと言ってくれる人などいなかった。その答えを聞いて、少年は思案顔になり、やがてぽつりと言った。
「なら、私が、君が泣ける場所になろうか?」
ソフィアはその言葉にびっくりした。その様子を見て少年は困ったように眉を下げた。
「へんなこと、言ったかな。君となら、友達になれそうな気がしたんだけど」
いやだったかな、と問われて、ソフィアは慌てて首を振った。その反応を見て、少年はぱっと笑顔を浮かべた。
「私はエドモント。君の名は?」
「……ソフィア、です」
「そう、ソフィア、よろしくね」
それがソフィアとエドモントの出会いだった。それからエドモントはしばしば連絡をくれるようになった。それは手紙であったり、近親者だけの小さなお茶会のお誘いであったり、話すのが下手なソフィアにも負担でない気遣いだった。言葉を交わすときも、彼は不器用なソフィアの言葉をゆっくりと待っていてくれた。ソフィアが彼に心惹かれるようになったのは、無理もないことであった。
だから、エドモントの婚約が調ったと聞かされた時、ソフィアは例えようもなくうれしかった。そしてエドモントも同じ気持ちであれば、と、願っていた。




