無知
リリアナは動揺していた。これまでになく、狼狽えていた。自分が何をしたのかが、よくわからなかった。ただ、誰よりも美しくあらんとして美しいものを求め、そして求められるままにそれを身に着けたまでだ。何か、間違ったことをしただろうか。
リリアナの視界にはまだ靄がかかったままだった。
まっすぐにリリアナを射た、紫の瞳が記憶から離れなかった。リリアナは器用な少女だったから、これまでにあんな視線を向けられたことはなかった。リリアナはひどく混乱した。あんなにも、憎まれるようなことをしただろうか。
リリアナは促されるまま、学院の保健部の一室に身を落ち着けた。執拗に事情を問われることも、責められることもなかった。ただ今日はもう休むように、と言われただけだった。皇家の秘宝を爆発させ壊しておきながら処分されないのは、カルロスが気を回したのか、皇子に配慮してのことなのか、それともそこまで手が回っていないだけなのか。しかしそれはもはやリリアナにとってはどうでも良かった。
これまで、皇子に認められることは、リリアナにとって大事なことだった。権力者の前にはすべてがひれ伏すと、権力のもとにはすべてが手に入ると、そう思っていたからだ。しかし今のリリアナには、それはどうでも良いことだった。リリアナは自分の気持ちがよくわからなかった。
ただ、頭にこびりついて離れなかった。誰かをかばって崩れ落ちるエドモントの姿と、その名を呼ぶ声。そして、憎しみを湛えた紫の瞳。
リリアナは保健部に引きこもった。誰も何も言わなかった。体の良い監視だったのかもしれない。そうだとしてもリリアナにとってはどうでも良いことだった。今は、何もしたくなかった。何も考えたくなかった。
あれほどまでに自分をもてはやした男たちは、見舞いにすら来なかった。来なかったのか、来られなかったのかはわからない。しかしリリアナは、すくなくとも自分が面会謝絶という扱いを受けていないことはわかっていた。毎日メリイが訪れては、周囲の状況を知らせていたからだ。
そしてもう一人、足しげくリリアナの部屋を訪れる者がいた。ソフィアである。その事実は、リリアナを混乱させた。今回最も傷ついたのは、彼女の婚約者エドモントであるはずだ。メリイから聞く限り、エドモントは意識不明のまま、回復の兆しが見えないという。ソフィアからすれば、リリアナは憎むべき相手ではないのか。部屋を訪れるのはまだ良い。同じくこの保健部にいるというエドモントの見舞いをして、そのついでなのだろう。だが、なぜ、リリアナを責める言葉の一つも言わないのだろうか。もの言いたげな表情を一瞬浮かべるだけで、詰るわけでもなく、恨み言を言うでもなく、一言二言リリアナを気遣う言葉をかけて去っていく。その姿が理解できなかった。
その日もソフィアが部屋を訪れていた。彼女は少し口ごもるようなそぶりを見せ、ややあって口を開いた。
「体調は、どうだ」
朴訥に紡がれる気遣いの言葉にどう答えていいかわからず、リリアナは顔を俯けた。特にけがをしたわけでもない。視界が晴れないだけで、特別調子が悪いわけでもない。ただ、どう答えればよいかわからなかったのだ。
何を誤解したのか、ソフィアはそんなリリアナに気づかわしげな視線をよこした。その事実に、不意にリリアナは苛立った。
「何か、仰りたいことがあるのでは」
リリアナは顔を上げて、ソフィアの瞳をまっすぐにとらえた。
「私を、責めたいのでしょう」
「責める?」
「私が、あなたの婚約者が傷つける原因をつくった。だから詰りたいのでしょう」
リリアナは苛立ちを募らせながら、ソフィアに言葉を投げつけた。
「なぜ何もおっしゃらないの。同情?偽善?そんなもの、私が必要としていると思って?何も知らずに事故を招いた馬鹿な女なのだと見下げていらっしゃるのかしら」
「違う」
「違うなら、なぜ毎日のようにいらっしゃるの。憎い女の顔など、見たくないでしょう。それとも落ち込んでいる様子を見て留飲を下げたいのかしら」
それならばおあいにく様、私は自分が悪いなんて思っていないもの。リリアナはソフィアを睨みつけた。ソフィアは動揺した様子で、口を開きかけて、また閉じた。リリアナは苛立ちながらその言葉を待った。彼女が何か自分に伝えたがっていることは、わかっていたのだ。
「エドモントが、危ないんだ」
ややあって、ソフィアはぽつりと言った。そして俯く。私には何もできない、と。リリアナは眉をひそめた。そんなことはメリイから聞いている。躊躇するようなことだろうか。
ソフィアは俯いたま言葉をつづけた。
「魔力欠乏症だ。あの事故の時、周囲をかばおうとしてあなたの傍に飛び込んで、魔力の多くが何者かに吸われてしまった。知っているだろう、魔力の量が変化すると体調を崩す。それが急激な変化となると……」
ソフィアの視線にある、彼女の指先が震えていることにリリアナは気づいた。リリアナは無言で先を促した。
「魔力が回復する兆しはない。このままでは命が、危ない」
そう言ってソフィアは震える手を固く握りしめる。その指先は貴族らしくなく、どこか節くれだっていた。
「治癒魔法の使い手なら、魔力を回復させることができるらしいが、今はそのほとんどが南の戦線に出払っている。しかも、皇都に残っているのは皇家に万一があったときのための術師だから、エドモントとは属性が合わないんだ」
そこまで言って、ソフィアはまた口を閉じた。しばしの沈黙が降りた。
「あなたは、生長系の状態魔法を使えると聞いた。しかも、四属性持ちだと」
ソフィアはまだためらいながら、言葉をつづけた。
「治癒魔法の根本は、生長だ。だからあなたならばエドモントを救えるかもしれない。しかし、一方であなたはまだ途上の身だ。きちんとした訓練を修めないまま、大量の魔力を回復させるような大掛かりな魔法を使うことは、あなたの身を危険にさらすかもしれない」
そこでまたソフィアは言葉を淀ませた。そこまで押し黙っていたリリアナだが、急に苛立ちが隠せなくなった。
「それで何、私に何をさせたいのです」
「すまない」
ソフィアは大柄な身を竦ませた。
「はっきり仰って」
「すまない……」
また沈黙が降りた。そのことに苛立ちを募らせたリリアナはさらに言葉を投げつけようとして、すぐに口をつぐんだ。ソフィアがリリアナをまっすぐに見たのだ。その瞳には決意の色がにじんでいた。
「エドモントを、助けてほしい」
そこまで言って、ソフィアは頭を下げた。そのことにリリアナは愕然とした。ソフィアが、誇り高く傲慢な貴族であるはずのソフィアが、平民である自分に頭を下げたのだ。馬鹿にしていたはずのその茶色い髪の色が、ひどく美しく見えた。
「良いわ」
リリアナが即答したことに、ソフィアは目を見張った。
「……良いのか?」
「ええ、やってみましょう」
「だが、あなたに危険があるかもしれない。このままでは危ないというだけで、今日明日に、というわけじゃない。しばらく考えても……」
「しつこいわね。私しか助けられないのでしょう?」
ここまで来てまだためらいを見せるソフィアに、リリアナは思わずぴしゃりと、崩れた口調で答えた。ソフィアは少しばかり委縮して、小さく頷いた。
「彼を助けたいの助けたくないの?」
「助けたいけれど……」
「じゃあ良いじゃない。私とあなたは他人。他人なんか、自分の大切なものを手に入れるため、利用するために存在するのよ。私の身を気遣う必要なんてないわ」
リリアナは鼻で笑う。
「まだ時間に余裕があるというなら、少しでも治癒魔法を学びましょう。彼が安全だと言われているのはあと何日間?」
「二十日間ほど、と聞いている」
「そう、意外と時間があるのね。私だって死にたいわけではないわ。どちらも死なずにいられる方法を探しましょう。メリイにも手伝わせるわ。ああ見えてあの子、意外と賢いから。あなたも、手伝わないとは言わないわよね?」
「もちろん」
ソフィアは笑んだ。そして、再び深々と頭を下げた。
「ありがとう」
そのとき、リリアナの胸にあったのは喜びだった。それがなぜかは、リリアナにはわからなかった。




