渇望
リリアナは上位クラスの課程を難なくこなしてみせた。もともと上位クラスと下位クラスで学問のレベルは変わりなく、むしろ作法の授業が少ない分魔法学などの課程に時間を割きやすい。だから座学でそれなりの成績を修めるのは簡単なことであったし、実技に関しては圧倒的な才があった。
「私の婚約者を誘惑しないで、とよく言われるの。だから言って差し上げたわ。誘惑したつもりはないけれど、そう見えたのだったらあなたの努力が足りないのよ、と」
メリイとお茶を過ごしながら、無償で男の心が手に入るなんて思っているのかしら、とリリアナは首を傾げて見せる。リリアナは養父や顧客の心をつかむことで望みをかなえてきた。彼らの心をつかむ術を磨いてきた結果として、今のリリアナがあるのだ。怖くはないの、とメリイは不安げな様子を隠さない。そんなメリイをリリアナは臆病ね、と笑った。
「何を心配することがあるの。私は皇子殿下とも、その周りの皆様とも仲良くしていただいているわ」
「でもそれが、ご令嬢がたの反感を買うのじゃあないの」
「そうかもしれないわ。でも、殿下が良いと言っているのだから、文句を言えるわけないわ」
事実、リリアナは令嬢たちの嫉妬を顧みなどしなかった。同情もしなかった。自分に心を奪われるくらいなら、そしてその心を取り戻せないなら、そこまでの関係なのだ。だから何かにつけて攻撃し、足を引っ張ろうと試み、陰口をたたく上位クラスの令嬢たちのことなど意に介さなかった。
ただ、一人だけ妙に気にかかる存在がいた。ソフィアという名の令嬢である。
ソフィアは、カルロスの取り巻きの一人、エドモントの婚約者である。リリアナは、カルロスはじめ取り巻きの婚約者や恋人やその友人を称する者たちが、自分の陰口をせっせとたたいていることはもちろん知っていた。だから彼女が自分の前に現れたとき、何を言われるのかと身構えた。だが予想に反して、ソフィアはリリアナが借りていた学院の本を見せてほしい、と、訥々と告げただけであった。呆気に取られて本をそのまま貸してしまい、もしかしたら自分を陥れる策略だったかもしれない、と気づいたのはソフィアの地味な茶色い髪を見送ってから数拍後のことだった。慌てて図書室に向かえば、返却手続きは問題なく行われ、借り手はすでにソフィアの名に置き換わっていた。
「本は図書室に返しておいた」
数日後、ソフィアはリリアナにつかつかと歩み寄ると、淡々とした調子で告げた。女性にしては高い位置から送られる強い視線に、リリアナは何か気後れするものを感じた。
「厚意に感謝する」
リリアナへの強い視線を外さないまま、ソフィアは本を貸したことへの感謝を告げ、踵を返した。ソフィアは再び呆気にとられて、そのぴんと伸びた背筋を見つめた。
それ以来、リリアナはソフィアが気になって仕方がなかった。リリアナは見られることに慣れている。だからその他の視線など気にならない。利用したいときに気に掛ける、それだけだ。だがソフィアからのそれに関してはうまくいかなかった。それほど頻繁にその視線を感じるわけではない。カルロスの取り巻きたちと歓談しているとき、ごく稀に感じるだけだ。だが、その視線が無性にリリアナを苛んだ。
「寒い?」
思わず身を震わせたリリアナを、エドモントが気遣う。リリアナは慌てて、いえ、と儚げな笑顔を取り繕った。そして俯きがちに、視線のもとを窺う。ソフィアはもうこちらになど興味がないかのように、手元の本に視線を落としていた。相変わらずぴんと背筋を伸ばして。
「寒いのなら、言ってね。あたたかいところへ移動するから」
エドモントはそう言ってやさし気に微笑む。エドモントはいつも気弱げな笑みを浮かべている。軟弱な男だ、カルロスやほかの取り巻きたちはそう言って彼を揶揄する。エドモント自身、そう言われてもにこにこと笑って受け流すだけだ。しかしリリアナはソフィアを知って以来、エドモントにも何か底知れぬものを感じていた。
「やっぱり」
男たちのおしゃべりが一休みするのを待って、リリアナは口を開いた。
「やっぱり、少し寒いですわ」
リリアナは甘えた口調で告げる。ソフィアと同じ部屋にいるのが怖かった。一行は口々に、暖かい談話室へ行こうと告げ、移動を始める。リリアナは少し安堵して、安堵した自分に少し苛立ちを覚えながら、ちらりとエドモントを見、ぞっとした。
エドモントがソフィアを見つめていた。
リリアナの胸底に渦巻いたのは、はっきりとした不快感だった。
「私は誰よりも魔法の才があるのよ」
メリイに向かって、何回も何十回も告げてきた言葉を再び繰り返す。
「私は誰よりも美しい色を持っているわ」
メリイが痛々しくこちらを見つめてくる。その瞳の色が憎らしかった。
「そしてそれをどうやって使うかも知っている」
それなのに、なぜ私は、美しくもないあの女に、こんなに心を乱されているの。なぜあの人の視線の先には、あの女がいるの。なぜ。
メリイがそっと視線をそらしたのをみて、リリアナは苛立った。しかし一呼吸おいて告げられた、次の休みには街にでも出ましょう、という誘いに、知らず詰めていた息を吐いて、そうね、と答えたのだった。
次の休みは、時しも新年祭の前日、前夜祭の日であった。太陽が最も力を弱めるこの日、常世の闇を打ち払いし開国の祖と東国の悪霊を経ちし中興の祖にあやかり、東国から訪れるという邪気を払うため、各地の精霊殿では盛大な祭礼が執り行われる。特にこの皇都では、精霊の女王をその身に宿す選ばれし巫女が大衆の前に姿を現す、一年に一度きりの貴重な機会なのだ。
リリアナはメリイとともに精霊殿を訪れた。貴族たちは朝から儀式があるとのことで、ともに過ごせないのは不満ではあった。しかし、明日の新年祭の折には夜会をエスコートするとの約束をカルロスからとりつけていた。だからひとまず不満を飲み込んで、今まで商売に振り回されて堪能することができなかった皇都の前夜祭を楽しむこととしたのだ。
精霊殿は大変な熱気に包まれていた。僧兵たちが緊張した面持ちで大衆の通行整理に当たっている。長椅子の多くは埋まっていたが、リリアナがにこりと微笑んで学院の学徒として、精霊学の学びの参考にするために来たのだと言えば、すぐさま座席が用意された。
腰を落ち着けて前方を眺める。僧兵が並ぶさらにその前はおそらく貴族席、そこに二三の知った顔を見つけてリリアナは苛立たし気に目を細めた。地味な、茶色い後頭部。自分が行けない場所に、あの女はいる。
やがて儀式は粛々と開始した。戦線にいる第一皇子を除く、皇家の面々が姿を現す。皇家の祈祷に続き、二人の僧兵に先導されて一人の少女が姿を現した。神秘的な紫色の瞳が熱気のこもる祭殿を見渡し、一瞬リリアナたちに目を留めて驚きの色を浮かべたように見えた。しかしそれはほんの一瞬のことで、その瞳はすぐにまた元通りに伏せられたのだった。
少女は型通り、精霊の女王への祈祷を捧げ、神話を語り、古の契約を繰り返す。しかしその様子はリリアナの眼には入っていなかった。リリアナの心は少女の首飾りに囚われていたのである。精霊の女王と皇家の契約の証だというその首飾りは、自ずから虹色の光を放っているようだった。皇家に男児が生まれれば精霊殿に納められ、皇位継承の試練をつかさどり、立太子ののちはその伴侶の首を飾り、男児が生まれればふたたび精霊殿に納められる。中興の祖以降、皇国を何百年と見つめてきた首飾りは、今日も変わらず鮮やかな虹色を浮かべていた。
「ねえメリイ、私、あの首飾りがほしいわ」
そう言ったリリアナを、メリイがぎょっとした顔で見る。そんな様子を気にも留めず、リリアナはあの首飾りがほしい、と繰り返した。
「だって、虹色よ。虹色を身にまとうなら、すべての属性の魔法を身に宿し、誰よりも美しい色を持つ私こそふさわしいわ」
口にするうちにいっそうその思いを募らせたのか、熱に浮かされたように続ける。
「ねえ、メリイ。私が一番、あの首飾りにふさわしいわ」
何かにとりつかれたようにそう繰り返すリリアナが、メリイの瞳が浮かべた表情に気が付くことはなかった。




