怠惰
リリアナは皇都の大商人の遠縁の娘として生まれた。幼少時は慎ましやかな生活を送っていたが、親とともに皇都を訪れた際、その美貌に目を留めた大商人の養女となった。親元を離れたリリアナにとって、周囲の大人たち、特に養父含めて地位と財力を持つ男たちの目を惹くことが、人に認められ愛される唯一の術だった。彼女がその美しさを見せつけるたび、そして狡猾ともいえる賢さを示すたび、養父は彼女への愛を深めるようだった。養父はリリアナがうまく立ち回りさえすれば、望むものを何でも買い与えた。いつの間にかリリアナは、自分が引き立つような表情や振る舞いを演じること、あるいは自分を引き立てる存在をそばに寄せる、といった打算を行うこと、すべてを無意識に行うようになっていた。
リリアナにとって、容色でも、服装でも、自分より優れた存在がいるということは我慢ならなかった。自分の存在意義を揺らがせる存在だからだ。上流階級や下級貴族を相手にしている分には、彼女の矜持は満たされていた。しかし、いま、ここ学院には圧倒的な権力とそれにふさわしい装いをした貴族が存在する。自分は彼女たちよりも美しいはずだ。美しくあらねばならない。美しいと認めさせねばならない。リリアナは始めのうち粛々とマナーを学んでいた。それが上流貴族に近づくためのステップだと知っていたからだ。しかし、やがて飽きた。大貴族に対し、遜ることを強要する所作の数々は、彼女の矜持に合わなかった。
一方、同様に学問に飽きているものがいた。第二皇子カルロスである。カルロスは、それほど学問が好きではなかった。学院での学びにそれほどの価値を見出してもいなかった。馬を乗り回して鹿を追い、貴族の称賛を受けることや、夜会で貴婦人の噂話に上るほうが、よほど皇家にふさわしい振る舞いだと考えていた。
彼は自らが皇帝になるものと信じている。この国の皇位を継ぐには、精霊の試しと呼ばれる試練を乗り越える必要があった。兄ユリウスはその試練に失敗したと聞いた。だからどれほど困難なものか、と身構えてみれば、何のことはない、ただ皇都の傍の森で魔犬を三頭狩る、というだけのものであった。ひと月の猶予を与えられたが、三日で終えてしまった。決してカルロスに狩りの才があったわけではない。二人の供が、とどめを刺すばかりにした魔犬をカルロスの前に横たえてくれたのである。それ以来、カルロスは兄を馬鹿にしていた。あれほど簡単な試練を乗り越えられないなど何たる無能、と。一方の兄の方でも何か思うところがあったのだろうか、元来交流のなかった兄弟だが、ここ数年の間は顔すら合わせていない。
彼が皇太子の座を確信していたのにはもう一つ理由がある。母の出自である。カルロスの母はこの国で絶対的な地位と権力を持つ南の大公家の娘である。実のところ、南の大公領は現在戦禍にある。しかし彼はそれを気にかけていない。戦禍は祖父にあたる南の大公が何かうまく演出しているだけであり、兄を将軍として呼び寄せて弑し、皇太子の座を安泰なものとするための奸計だと信じてやまないのだ。
彼の視界には、輝かしい未来が開けていた。そこに努力は必要なかった。
その日もカルロスは、うるさい従者をうまく撒いて、二三の気の合う取り巻きとともに学院の裏手の林をぶらぶらと歩いていた。
「エドモントは来なかったな、軟弱な奴だ」
「あいつは臆病なんですよ」
そう言って授業を抜け出すことを拒んだ取り巻きの一人を笑う。今日は冬が近づいているとは思えない、まさに小春日和と言った気候で、教室で辛気くさい老教師のご高説やかび臭い教科書の文字を追いかけるにはもったいないくらいの陽気なのだ。
「弓でも持ってくればよかったな、鹿の二三頭でも仕留められそうな気分だ」
「学院の林で狩りは禁止されていますよ」
「なに、俺がやりたいと言うことに反対できるものか」
カルロスは冗談めかして笑うと、空の弓の弦を引いてみせた。
「きゃあっ」
突如上がった悲鳴にカルロスは取り巻きと顔を見合わせた。そして取り巻きの一人を前に立たせて、悲鳴が聞こえた林の奥へと向かう。そして、小さな泉の傍で、息を呑んだ。蜂蜜色の髪の少女が、その美しい空色の瞳に涙をためて、体を縮こまらせていた。
「どうなさいました、マドモアゼル?」
カルロスは即座に貴公子の微笑みを浮かべ、少女の前に膝をついた。少女は潤んだ瞳でカルロスを見ると、小さな声で、蛇が、と答えた。
少女の視線の先をたどれば、小さな蛇がこちらを見ていた。何だあれくらい、大丈夫だよと笑って見せて、カルロスは取り巻きの一人に蛇をどこかへやるよう指示した。取り巻きが恐る恐る蛇に近づき、何とか木の枝にからめとって林の奥へ消えるのを見届けて、ほら、とカルロスは笑った。
「あ……ありがとうございます」
少女は、まだ恐怖が抜けきらぬのだろう、震え声で礼を述べた。涙をうっすらと浮かべ、目元を赤くしてこちらを見つめる少女はたまらなく可憐だった。
「いや、あれくらいどうということはない」
「それでも、助かりましたわ。……私、蛇が怖くてたまりませんの……」
そして少女はぎゅっと目をつぶり、胸元で指を握りしめる。
「お礼ができたら、嬉しいのですが。私、リリアナと申します。お名前を伺っても?」
上目遣いで問う可憐な少女に、否という理由はなかった。
リリアナとカルロスが親しくなるのに、そう時はかからなかった。大商人の娘として人の顔色を読むことに長けたリリアナにとって、甘やかされて育ち感情を表に出しやすいカルロスの機嫌をとることなど、たやすいことだった。リリアナはカルロスに、自分がどれだけ魔力の才があるか伝え、皇子の威を借り、学院の通例を破って上位クラスに入りこむことに成功した。
「大丈夫、なの……?」
それを聞いて不安げに問いかけるのは黒髪の少女、メリイである。リリアナからすると、弱者の容姿を持つ彼女は、自分を引き立てる要素として、あるいは自分の優しさを際立たせる道具として便利であった。メリイの傍にいると優越感がくすぐられたし、強者の驕りにひたることもできた。だからリリアナは入学以来、メリイを友人と呼ぶことにしていた。
「何を不安に思うことがあるのかしら。通例に反すると言ったって、私ほど魔法の才にあふれた学徒が市井から入学することはなかったのよ。私が最初の例なのだから、通例も何もないでしょう」
リリアナはそう言ってやわらかい髪を揺らすと、白い指先でティーカップをつまみあげて紅茶を口に含んだ。高級な茶器も茶葉も、学院に通う貴族の子女に宣伝したいという下心から養父に持たされたものだ。だからメリイのような市井の者に振舞う義理はないのだけれど、この学院に入るということは何かの出世をするかもしれないし、これも先行投資だ、と考えることにした。そして、お茶を共にするほど仲の良い友人がほかにいないのだ、という事実には気づかないでいた。
「それでも、貴族の方々にはそれぞれ守ってきた誇りがあるのかと……」
「貴族の頂点に立つ皇家の方が、直々に良いとおっしゃったのよ。反対するのは不敬だわ」
「でも……面白く思わない方、いらっしゃるのでは。ほら、殿下の婚約者の」
そこまで聞いてリリアナは形の良い眉をひそめた。確かにカルロスには婚約者がいる。婚約者とは歳が違うから、面識はない。が、カルロスに取り入って上位クラスに入りこんだリリアナのことを、良くは思わないであろうとは容易に想像がついた。それでも、とリリアナは小さく小さく呟く。
「愛も嫉妬も、結局は財力と権力にはかなわないのよ」
リリアナの呟きが聞こえたのかどうか、メリイは黒檀の瞳を不安げに伏せていた。