#5 記憶と視線
荷物を取りに行くため、自宅のマンションへ帰った。
自宅で一晩過ごし、次の日に大学に行き、終わったら若櫻木さんのビルでお世話になる流れになっている。外に出るときは送ってもらうことになった。自宅の中や、大学内までは入ってこないけど、移動中は二人以上でいることと言われた。
事前に連絡していた時間の少し前に自宅を出て、マンションのエントランスに下りた。
着替えなど最低限の荷物を持ち直す。自動ドアが開き、そこに待っていた人物を見て驚いた。
「おはようございます」
「おはよう」
だって。
まさか。
忙しい人だからここにいるとは思わなかった。今日送ってくれるのは吾妻さんか熊田さんか、もしくははじめましての方だと思っていた。
ぽかん、と口を開けたまま立ち尽くす私に彼が僅かに首を傾げる。
「どうした?」
「まさか若櫻木さんが来るとは思わなかったので少し驚きました」
昨日、家に着いたときにも連絡をしてくれたし気を遣ってくれているのかな。
「若櫻木さん、今日はよろしくお願いします」
「あぁ。窮屈にさせて悪いな。こちらこそよろしく」
マンションの前に停めていた車の後部座席に二人で乗り込み、ドアが閉まった。運転席には熊田さんがいた。車が緩やかに動く。
「今日とっている授業はないのか?」
「レポート提出だけで大丈夫です」
「上園さん、授業はとってないのか?」
聞き流してくれると思ったのに上手くいかなかった。微笑んでいるが嘘を見逃してはくれないだろう。
「……必修がひとつ。でも、一回ぐらい休んでも」
「上園さん」
「……はい」
「必修以外でとってる授業は?」
「ひとつ、あります」
「今日はふたつだけ?」
「はい」
「じゃあ、ふたつ受け終わったら連絡してもらっていいか?」
「わかりました」
「できるだけいつも通りの生活を送ってもらいたい。だから気にしなくていい。それと、困ったことがあれば直ぐに連絡してくれ」
「……はい。ありがとうございます」
講義をふたつ受けた。午前中にあったので、お昼は食べずに大学を出る予定だ。
終わる時間は伝えてあったけれど、終わったら連絡をするように言われていた。
建物から出て食堂の横を通りながら、携帯を取り出す。
「あ、若櫻木さんですか。はい。終わりました。はい、レポートも提出しました。はい。じゃあ、門の方に行きますね。はい」
通話を切り、鞄に戻して周囲に視線を向ける。
知っている顔がちらほら見える。芽依や前原くんもいる。数人と談笑している。楽しそうに話している彼等は周りの空気に溶け込んでいる。前原くんと話していた青年の視線がこちらに動いた。
周囲の話し声が混ざりガヤガヤと雑音が耳を支配する。動こうと思ったのに足が重い。
彼等が私に気付き、こちらに歩み寄ってきた。
こんなにも笑顔を作りづらいと思ったのは久しぶりだった。
青年は、にこやかな笑顔を私に向けた。
「はじめまして」
違う。初めて見る顔じゃない。覚えている。頭が割れそうになるぐらい主張してくる。彼だ。例の私が見た男だ。
怪我をした人を引きずるようへ車内へと引き込んだ人。一瞬だけ、私が目撃した人。若櫻木さんや、檜内さんが探している人。
崩れるように顔を両手で覆いたくなる。逃げたくなる。口からなにかが出そうになる。口元を手で押さえた。
大丈夫。無理に話さなくていい。距離もとってある。
息を吸い、表情筋に力を入れた。
「はじめまして、上園小乃果です」
私に向けられた目元が笑う。
「よかった。前原から話は聞いてたんです。上園先輩が面白いことに巻き込まれたとか」
普通の学生に見える。一般に混じる学生に。
「あの、お名前を聞いてもいいですか?」
でも、覚えている。そして、覚えていない。
「あぁ。すいません。お話がしたくて、つい。俺は福田 直樹、一年生です」
「……一年」
「そうです。だから敬語は必要ないですよ、先輩」
「福田くんは……ずっとこの大学に通っていた?」
二回目だ。否定しなかったら確証に変わる。二回目の顔を見る。目元が細められており、口角がゆるりと上がった。
「嬉しいな」
「え」
「俺、ずっと休学してたんです。今日は入学式以来、久しぶりに来ました。仲良くしてくださいね、先輩」
じわじわと違和感が広がっていく。頭の中で警告音がずっと響いてる。なんだろう。なにかがおかしい。
話が噛み合っているような、噛み合っていないような。私が指摘することを喜んでいるような。
私の言葉を待っている。私が聞くことを待っている。
彼は気付いている。
私が言うべきことを考えながら微かに口を開く。
「小乃果」
若櫻木さんの声に我に返った。呼びかけられたことで止める。
声が届くけど離れた場所にいる。こちらに来ようとする彼に、笑いかけることで止めた。
大丈夫。なにも言うべきではない。
「福田くん、ごめん。もう行かないといけないから」
「いえ、大丈夫です。また話しましょうね、上園先輩」
できるなら、もう二度と会いたくはない。
言葉は返さずに会釈だけをして離れた。自然に駆け足になった。
「若櫻木さん」
「迎えに来た。帰るぞ」
言いながら手を取られた。手を繋がれたことを疑問に思い、顔を見上げる。怒っているような悲しんでいるような、それでいて押し殺しているような顔だ。
「遠くから見てるだけでも分かった。なにか、気付いたんだろ?」
掌のあたたかさが私を落ち着かせる。詰めていた息を吐いた。
「はい。ありがとうございます」
車が走る。区切られた空間に安堵して口を開く。
「彼でした。私が見た人物です」
「そうか」
「でも……」
言い淀む。気になることが出てきた。こちらは確信はない。
窓の外へ視線を移し考えていると、頭をふわりと撫でられた。
「気になることがあるのなら話した方がいい。関係のないことでも些細なことでもいい。気にせず吐き出していい」
優しい声が後押しをする。はっきりとしたことは言えない。自分の記憶でしか違和感はない。
「視線が……」
ひとこと零してしまえば溢れ出た。
「彼を見たのは二回目です。大学を休んでいたと言っていたので間違いはないと思います。でも、視線を知っている気がして。私が三日間に感じていた視線と似ているような、違うような。……はっきりとは分からなくて」
「複数いるのかもしれないな。毎日、人が変わっていたのかもしれないし複数で見られていたのかもしれない」
改めて突きつけられると体が震えそうになる。両腕で自分の体を押さえ込んだ。
「そうですね。その方がしっくりきます」
「すまない」
「謝らないでください、って言ったじゃないですか。迎えに来てくれて、感謝してるんですよ」
腕を緩めて若櫻木さんを見る。
「ありがとうございます。熊田さんも送ってくれてありがとうございます」
運転中の熊田さんにも声を掛けてから、若櫻木さんを振り返る。
「あと、ビルに着いたら暫く引きこもるのでよろしくお願いしますね。ボス」
難しい顔をしていた若櫻木さんの顔が緩まった。
「上園さんに言われると変な感じだな」
「若櫻木さんも名前で呼んでいたじゃないですか」
「あれは……」
「分かってますよ」
私を助けるための呼び方だ。多少強引にでも私を遠ざけるための行動。
「俺は入り口で降りる。上園さんは熊田と一緒に駐車場まで行って車を置いてから、ビルに入ってきてくれないか」
「分かりました」
若櫻木さんは、熊田さんにも目配せをしてから私に視線を移した。
「それと、あとで上園さんに聞きたいことがある」
「はい」
あとで、という部分に多少気になったが頷いて了承した。
車が停まり「じゃあ、またあとで」と私と熊田さんに声を掛けて、ドアが開けられる。
若櫻木さんが降りた。
唐突に、不安が胸の中で溢れ出てくる。ピンと糸が張る空気がする。そして、糸が切れる感覚。糸の先に視線を移そうとしたとき、若櫻木さんによってドアが閉められた。訪れた隔たりが益々私を不安にさせる。この感覚はなんだろう。
思考は、乾いた音によって途切れさせられた。
パ……ンと風船が割れるより大きい音。なにかに当たった音。ずるりと若櫻木さんの体が崩れ落ちそうに、ぐらついた。
目の前で起こった出来事を考えるより先に手が動いた。閉められていたドアを慌てて開ける。
「若櫻木さん」
悲鳴のような声が自分の口から出た。
若櫻木さんの驚いた顔。
手を伸ばし、彼の腕を掴むと車内へと引き込んだ。
荒々しくドアが再び閉まる。いや、閉めたのは私だ。目の前の出来事が、どこか映像を見ているみたいで現実味がない。ただ、彼の腹部から赤いものが滲み出ていた。撃たれていた。
「上園さん、どこからだった。どこから狙撃されていた?」
私は試されてるのか。分かっていたかのように、しっかりと確認する声だった。知っていた。知っていたから、聞きたいと言った。
――あとで上園さんに聞きたいことがあるから、と言った。
私の体質を知っている。そして、少し先の未来を彼は知っていたようだった。
「右側前方の青いビルの屋上です」
私の言葉を確認すると、若櫻木さんはどこかに連絡を入れた。彼の口から、私が言った場所が出る。電話の相手に告げている。
私の言葉を疑うことはしなかった。彼は解っていたから。
ピッと短い電子音が通話の終わりを告げる。若櫻木さんは私に言った。
「俺は、未来は視えない」