#1 ボス、ファーストメモリー
携帯端末の画像を見せられた。
私の横顔と男性の背中が画面に写っている。数十分前の出来事なので、どんな場面なのか鮮明に思い出すことができる。
スーツ姿の男性がずらりと居る室内で、ひとり場違いな私は座っていた。
ちらほら視界に入る強面の男性達は、にこりともしない。っていうか、ガン飛ばすのやめてもらえますか。
ボスと呼ばれた男性が重く口を開いた。
「抱きしめてたのは、お前の知り合いか?」
深い海のような瞳が正面から私を見つめる。
見つめた、と書けば甘い雰囲気が漂ってきそうだけど、そんなことは全くない。
あと、これだけは言わせてください。
抱きしめてないです。この画像だけ見るとそういう雰囲気に見えなくもないですけど、違います。支えていただけです。本当ですよ。
怖い顔で睨まないでください。ちゃんと一からお話ししますから。
*
空き缶が飛んできた。
正確にはペンキが入っていたと思われるペンキの缶。
日が傾き始めた人通りの少ない時間帯の、街中なので幸いにも缶が誰かに当たることはなかった。
問題は足元に流れた赤いペンキだ。靴にペンキが付いてしまった。いやでも、新品の靴でもないある程度履きつぶした靴なのでセーフ。服にもかかっていないからセーフ。うん、大丈夫。これくらい許容範囲だ。
缶は私の名を呼ぶようにカラカラと音を立てて道の端へと転がっていく。
ふと、視線を上げればペンキの川が途切れた先に人が倒れていた。いつからそこに居たのだろう。スーツ姿の男性が壁にぐったりと体をあずけている。
ペンキと一緒に落ちてきたのだろうか。空を見上げ周囲を見渡す。青空が広がっているだけで特に変わったことはない。
男性に視線を戻すと、腹部が赤く汚れていることに気付いた。怪我をしているのかもしれない。
慌てて駆け寄り、声を掛けた。
返事がない。
もう一度声を掛けようとしたとき、うっ、とうめき声が男性の口から出た。
よし、生きてる。
「まだ死なないでくださいね。救急車呼びますから」
鞄から携帯を取り出し、番号を押そうとしたところで腕を掴まれた。
弾みで手の中から携帯が落ちる。
掴んできた手に視線を向けると、袖口と腕時計にも血が付いていることに気付いた。
「必要ない」
重症の男性が言った。
「でも……」
男性は私の腕を離して、ある方向を指差した。
「車がある。あそこに連れて行ってくれ」
「それは……いいですけど、病院に連れて行ってくれる人はいるんですか?」
私の質問に男性が頷く。きっと車に誰か乗っているのだろう。納得して頷き返し、肩を貸して支えながら男性と一緒に歩いた。
車はどこにでもある車だった。街に溶け込むように道路わきに止まっている。
立ち止まり、ドアを開けようかと思ったところで男性の腕が私から離れた。
「ここでいい」
突き放すように静かに言われれば、それ以上手伝う気にはならなかった。
「分かりました。気をつけてくださいね」
「あぁ。ありがとう」
お礼を言われたことで自分を幾らか納得させる。
戻ろうとした途中で気になり、足を止め振り返った。
車のドアが開き、中から手が伸びてくる。引きずり込まれるように車内へと男性が消えた。
男性の知り合いがいたのか。だとしたら病院に連れて行ってくれるだろう。
気になる点はいくつかあったのだけれど、怪我人に問いただすことは躊躇われる。
気持ちを切り替えるように頭を振った。
「あぁ! 携帯落としたままだ」
先月スマートフォンに買い換えたばかりの携帯を思い浮かべ早足で戻る。
男性が倒れていた場所の近くで直ぐに見つかった。
ペンキにかからないところギリギリの道端に落ちている。地面に落ちていたので汚れてはいるけれど取れない汚れではない。
壊れていないことに安堵して拾い上げようとして、自分の手も汚れていることに気付いた。
「よかったら、使ってください」
初めて聞く声が耳に届いた。振り向くと男性が私にウエットティッシュを差し出している。
ご丁寧にポケットティッシュも添えて、にこにこと微笑んでいた。
男性の一歩後ろにもう一人男性がいる。ティッシュ配りではなさそうな雰囲気に僅かに警戒した。
後ろに立っている人は強面だった。二十~三十代の男性。対するティッシュを差し出す人は十~二十代の男性。隣の男性より背が低いので学生だと言われても驚かない。
雰囲気が落ち着いているのか、服装のせいなのか落ち着いているように見える。
黒いスーツを着てることに少し違和感を覚える。だからといって着られている感じはしない。少年の体に馴染んでるように見えた。
「受け取ってもらえませんか」
少し困ったように少年が言った。私が躊躇いつつも、そっと手を伸ばすと少年はほっとしたように笑った。なんだろうこの人達、対照的だ。
「ありがとうございます」
さっさとお礼を言って立ち去ろうと思った矢先に少年が笑顔のまま私に告げた。
「さっきの人は知り合いですか?」
唐突な質問に戸惑う。
彼の方が知り合いなのか、興味本位なのか、表情だけでは読み取れない。
「……いいえ」
ここで会話が終わっていたら私は疑問に思うこともなかった。
でも、彼の口は動いた。
「僕たちのボスに会ってくれませんか?」
「え?」
単語を理解するのに時間がかかった。
ボスって BOSS? なに。あやしい勧誘?
新しい詐欺かな。少年の顔はいいからコロッとだまされる女の子もいそうだな。
隣の男性より背は低いけど、平均より低いわけじゃなさそう。というか、隣の人が大きすぎなんだ。そして、ひたすら無言なのに視線だけ感じる。
こんなの怪しむなって方が無理なんだけど……。
詐欺だとしても、どうして知り合いか聞いたのだろう。
答えを出さない私に、少年は人好きするような笑みを携えて少し困ったように眉を下げた。
「本当はボスの方から会いに来れたらいいんだけど、そうするとちょっと面倒なことになっちゃうんだよね。だから、僕たちと一緒に来てくれませんか?」
自分の魅力を分かっていての表情なのか、つい頷きたくなる可愛さがあった。
状況が飲み込めない私に更に畳み掛けるように重ねる。
「あ、さすがに歩かせないから。ちゃんと車も用意してるから安心して」
何をどう安心するのだろう。
言ってから指を差す。指の先に黒い車と、少女がいた。
車の横、ドアの前に立っている。水色のセーラー服を着て、上から白衣を羽織っている。
ふわふわとやわらかそうな髪が風になびき、少女は腕時計を見ていた。
ふ、とこちらを振り向き目が合いそうになったので、私はそっと視線を外した。
美少年ときたら、次は美少女ですか。意味がわからない。
視線を少年に戻す。
「君が来てくれないと僕も困るんだよね」
嘘なのか本当なのかは分からない。分からないからこそ、じわじわと探究心が疼く。
目の前に箱を出されると、中身を覗き込みたくなる。
私は口元を手で覆い、考えるように視線を外した。
「わかりました」
例えばもし、厳つい顔の男性二人だったら全力で逃げていた。
だから怯んでしまった。考えてしまった。対照的な男性二人とセーラー服の少女がいる理由を考えてしまった。私と同じように巻き込まれたのであれば一緒に逃げる方法を考える。そうでないのであれば――
*
連れてこられたのはビルだった。見上げると首が痛くなりそうな高さ。セキュリティもしっかりしてるようで入り口で止められて、電車の改札口のような所を通らされた。
少年が腕時計を機械にかざすと電子音がしてランプが光る。通行証になっているのだろう。
機械の間を少年が通り私も続いた。
後ろから電子音がして振り返ると、少女が戸惑わずに通っていた。少女も同じ腕時計を持っている。なんだ。私だけが部外者だ。
何気なく、通り過ぎる人の腕を見ると同じような腕時計が付いていた。ここのビルにいる人が付けているもの、なのかもしれない。
少し歩き、ひとつの部屋の前で立ち止まる。ドアの横についているタッチパネルに腕時計が付いている
右手をかざす。機械が反応してドアが開いた。通路が顔を出し、また少し歩くと部屋に辿り着いた。
机とソファが置いてあり、小さな窓も付いている。オフィスのような清潔さだ。
「掛けて待っていてください。ボスを呼んできます」
少年がそう言って部屋を出た。残されたのは強面な男性と美少女と私。
私だけソファに座ってしまったので、居心地が悪い。二人は座らないのだろうか、と思っていると私の隣に少女が座った。
「いまのうちに手当てしときますね」
「え」
初めて少女に話しかけられたので間抜けな声が出てしまった。
少女は笑みをつくると、私の足に擦り傷があることを教えてくれる。
いつの間に怪我してたのだろう。そして、怪我に気付き慣れた手つきで手当てしてくれる少女の優しいこと。緊張がゆるまる。
「はい、終わりました」
「ありがとうございます。慣れてますね」
消毒液を鞄に戻しながら少女が笑う。
「私にまで敬語使わなくていいですよ。これが私の仕事ですから」
仕事。
白衣も着てるから医者……にしては幼いし、高校生ぐらいに見える。
「……もしかして、ここの人達と関わりがあったりする?」
「関わりと言いますか、知り合いですね。サイカはグループには属さないけど、出入りはしています」
ほら、と言いながら左手首についている白い腕時計を見せてくれた。
シンプルなリングにデジタルの数字が光っている。手首を回して、文字盤と反対側も見せてくれた。
白いリングだけが輝いて見える。
「じゃあ、私は行きますね」
手当てしてくれるために、この部屋に一緒にいたのだろうか。
「……うん、ありがとう」
「私は彩賀です。彩賀 優来。またお会いする機会があれば手当てさせてください。貴方のお名前はそのときに聞かせてもらいます」
ぺこりと、お辞儀をして部屋を出て行ってしまった。
四人で移動してこの部屋に着いて一人減り、少女もいなくなると必然的に部屋に中は二人だけになる。
おっさんと二人きりになってしまった。
うん。最初からずっと一緒だった強面の男性がいるんだよね。
ひとことも話し声聞いたことないんだけど、話せるのかな。話したら怒りそうな顔してる。
私、あとどれくらい待ってればいいんだろう……。
わー。ボスでもなんでもいいから、はやく来てくれないかな。
小さな憂きはドアのノックにより吹き飛んだ。
男性が内側からドアを開ける。ぞろぞろと三、四人室内へ入ってきた。
どの人も同じようにスーツに身を包んでいる。この前、ドラマで見たSPみたいだな。と思う程度には、その中の一人が目立っていた。
同じようなスーツを着ているが、身にまとっている雰囲気が違うのか。まわりからの視線や意識が真ん中の男へと集まっている気がする。
男性達の一人が「ボス」と声を掛け、男が静かに手で制した。そして、ボスと呼ばれた男だけが私の真正面へ腰掛けた。
ソファから数歩離れて男性達が待機している。部屋の視線は座っている私達へと注がれた。
視線痛いわ。圧迫面接でも始まるのかと言いたくなる。
唯一の救いは目の前の男が微笑んだことだった。
そうして、会話が始まり冒頭の画像を見せられたところに戻るのだった。
*
ペンキ缶が飛んできたくだりから丁寧に説明した。
画像の男性が今日会ったばかりの他人であると強調してお話する。
変な誤解から巻き込まれたくないしね。
ボスさんは相槌をうつが、口は挟まずに最後まで私の話を聞いてくれた。
「と、まぁ……こんな感じなので知り合いではないです。名前も知りません」
たっぷりと間を空けてボスさんが溜息のように言った。
「……そうか」
先程までの雰囲気とは違う。飲み込まれそうな威圧する雰囲気が薄れた。
そんなにあっさり信じていいんですか。事実ですけども。
「関係ないのに連れてきてしまい、悪かった」
頭を下げられた。私の足元で床に頭をつけてるのを見ると私の方が悪いことをしてる気分になる。土下座は大袈裟なのでやめてほしい。
「顔を上げてください」
私がそう言って少しの間のあと、ゆっくりと頭が上がる。申し訳なさそうに眉を下げている。長い睫毛と小さなポイントに気付いた。泣き黒子があるからなのか、怖さや迫力はない。
「そんなに謝らないでください。こうゆうことは慣れていますから。よくあることなんです。今日だってスマホをペンキに落として……あ」
……拾うの忘れてた。
「預かってる」
「え」
携帯を差し出された。新品の輝かしさに思わず裏返たり待ち受け画面を確認し、自分の携帯だとようやく分かった。
落としたのに、綺麗になっている。
携帯が手元に戻ったことで先程の画像を思い出した。
「画像は消去してくれますよね?」
どうやって撮ったのかは聞かないけど、自分の顔が残ったままなのは嫌だ。
「元々そうするつもりだ」
「ありがとうございます」
「迷惑をかけて申し訳ない。あぁ、名刺も渡していなかったな」
名刺を手渡された。
若櫻木グループ、若櫻木 慶と書いてある。
有名なグループだ。マフィアという噂をちらっと聞いたことがある……。
うん。これ以上、関わらない方が吉ですね。
帰ろうと腰を浮かしたところで、また唐突に言われた。
「俺は人の嘘が分かる」
「そうですか」
いや、だって。他にどう返事すればよかったの。
これってあれでしょ。悪い人は目を見れば分かる、とか言ってる人と同じでしょ。
人間観察もとい経験則で分かるということだろう。
少年といい、ボスさんといい、不意をつくような会話が好きなんだろうか。
「最後にひとつだけ質問させてくれ。赤のファミリーを知っているか?」
「え、……何かの暗号ですか?」
「ファミリーを知らないのか」
「ファミリー?」
私の聞き返す声は、ドアをノックする音と重なった。
軽く断りを入れてから男性が部屋に入ってきた。男性は、若櫻木さんにだけ聞こえるように耳元で話した。聞いた彼の顔つきが変わった。静かに怒っているように見える。
彼は室内の人間へと目配せしながら言葉を放つ。
「外の様子は――分かった。そちらは任せる」
急に室内の空気がピリッと変わり畏縮してしまう。私の様子に気付き、彼は安心させるように笑みを浮かべた。
「申し訳ない、直ぐに車で送らせる。熊田、吾妻」
名前を呼ばれた二人が同時に返事をする。
私は思わず名前を呼んだ。
「若櫻木さん、」
聞いたところで私に分かるわけない。関わらない方がいい。それでも、胸がざわざわと騒ぐ。口を開いたところで言葉は考えていなかった。
「悪かった。一般人に関わらせるわけにはいかない。連れて来るべきじゃなかった……」
最後は押し殺すように呟かれた。突き放されたように、ひやりとする。
少し話しただけで終わった。終わってしまった。画像もあることだし他に目撃者がいるのかもしれない。私はなにも分からないまま終わる。
「残念です」
口の中で呟いて瞼を伏せる。
自分に向けた言葉だった。もっと聞かれるのかと思った。特徴や顔、気付いたこと。
ドラマではないのだから、こんなものなのか。ひとりの人間が、力を持たない唯の人間ができることなんてない。
下がった視線を上げると、彼の視線とぶつかった。彼の目が私を見たまま止まっていた。
彼は私を連れて来たことに意味はあったのだろうか。
……もう会うこともないのだろう。
今更ながら自己紹介をしようと思った。彼が名前を教えてくれたのだから、私も返すべきだ。
「車を出していただいて、ありがとうございます。私の名前は上園小乃果です。さようなら」
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