ハンズアップ
僕と高井は海に下りていく長い坂道を自転車に乗って猛スピードで下っていた。
荷物は替えの下着だけ。
僕らは地図も持たずに飛び出していた。
自転車もマウンテンバイクなどではなく、ただの銀色の通学用自転車。
それでも僕らは猛然と東京へ向けてペダルをこぎ続けていた。
高井が眼下に広がる海に向けて
うぉー
と叫び声を上げる。
僕も一緒に叫ぶ。
僕は叫びながら、前日の出来事を思い出していた。
高井がペンを投げ捨てた。文字通り、投げ捨てた。
トントントンと字を書く音しかしていなかった教室に、突然ペンが床に転がる音が響く。
自習用に割り当てられた教室だった。
外は相変わらず太陽が嫌がらせとしか思えない輝きを放っており、少しでも窓を開けようものなら、じめじめとした熱風が教室になだれ込んできた。学校のはからいで自習室にはクーラーが設置されていた。
一介の公立進学校に過ぎない僕らの高校からしたら、クーラーの設置は相当な大奮発だったに違いない。
事実、自習室のほかにクーラーが設置されているのは保健室と音楽室、そして腹の出た校長が時折女子学生を連れ込むといううわさのある校長室しかなかった。
部活動も引退し、頭の切り替えが十分でないまま受験モードに突入した僕らは、無理やり自らを奮い立たせるため、予備校の夏期講習のない日はこうやって自習教室で勉強をしていた。
僕はまだ30分程度しか勉強してないのにも関わらず、ちょうど英単語の暗記が暗礁に乗り上げたところだった。
高井はいつ休憩を取るのかと、いや、高井ももう休憩をとらないかな、と気になった僕は、一番右前の席で極端なほど前かがみになって何かを必死に書いている高井を観察していたところだった。
高井が突然ペンを放り出したのはその矢先だった。
初めは本気で頭がおかしくなったのではないかと思った。
慣れない勉強のせいで発狂したのかと思った。
しかしよくよく考えてみれば僕にしても似たようなものだった。
もはや目の前の単語帳にのっている英単語たちは意味を失い、ただのアルファベットの羅列としか見えなかった。
僕も高井と同じようにペンを投げ捨てた。
両手を挙げて投げ捨てた。ペンが床を転がっていく音が心地よく感じた。
高井は前から銃で撃たれたような姿勢で、顔は上を向き、口をあけひろげて、降参の格好をしていた。
そこで不思議なことが起こった。
周りで一緒に自習をしていたほかの生徒も、僕や高井と同じようにペンを投げ捨て始めた。
あちこちからペンが放り投げだされる。
コンコンとペンが床に次々と落ちる音が響く。束の間に教室にいた20人弱の生徒はみんな僕らと同じようにペンを投げ捨てていた。
「あ゛ー!!!」
突然高井が裏返った叫び声を上げた。
その声があまりに切実な響きを持っていたため、つい僕は笑ってしまった。みんなも同じように笑った。
その後僕らは何事かと駆けつけてきた教師にこっぴどく叱られた。
ことのさきがけが高井と僕だということが知れると、そのまま職員室に連れて行かれた。
「お前らはなにを考えているんだ?」
僕らを連れてきた教師は、ねちねちとした叱り方をする五十台の腹の猛烈に飛び出している国語科教師だった。
僕らはその教師のことを影でトドガワと呼んでいた。都外川という本名と、動物のトドに体格が似ていることからのあだ名だった。
「こいつが急にペンを投げ出したから、つい」
高井がうつむき加減に僕を指さして言った。
「なっ」
いきなり罪をかぶせられた僕は驚いて高井を見返すと、彼はニヤついて僕のほうを見
ていた。
僕もトドガワに言った。
「違いますよ。こいつが先に急にペンを投げ出したんです」
「いい加減にしろ!」
国語教師は怒鳴った。
そのあとは「おまえらはそもそも」から始まり、さんざんに、受験生なんだから、とか少しは危機感を持て、だとか、しまいにはいつまでも玉けりで遊んでるからそんな頭も浮ついてしまうんだ、と叱るというより嫌味に似た調子で怒鳴られ続けた。
高井も、たかだか県4位で何を調子に乗っているんだ、と言われた。
走り幅跳びで県4位の成績を残していた高井にとっては屈辱の言葉に違いないだろうが、高井はただ無表情にトドガワを見つめ返しているだけだった。
僕もそれにならってただひたすら無表情な顔をしてトドガワを見つめていた。
反応のない僕らを前に、嫌味のネタにも尽きたのか、30分あまりでトドガワは疲れた様子で僕らを釈放した。
職員室を出ると高井は言った。
「なぁ、今ずっと考えてたんだけどさ。」
あの状況で全く関係のないことを考えていたのか、と僕は感心した。
「何?」
「東京行かない?」
突発的に出てきたにしては、あまりに奇抜な単語だった。
「えっ?」
「自転車で」
僕は「いつ?」といつもどおりのまぬけな受け応えをしていた。
そうやって僕らはまだ夏期講習も残っているお盆前の猛暑の中を、自転車で東京へ向かうことになった。
僕と高井は共に東京の大学への進学を考えていた。
僕はよくある地方の高校生と同じように東京の生活に憧れを持っていた。
両親は東京進学を反対すると思っていた。しかし両親にそのことを伝えると、意外にもあっさりと父も母も了承をしてくれた。
最後の試合に負けた日の夕食の時だった。
19インチのテレビを囲むテーブルには、僕らが試合に勝つことを前提としていたのか、赤飯が炊かれていた。
母親は「いや、3年間お疲れ様っていう意味での赤飯だよ」と言っていたが、嘘に違いない。僕が切り出したとき、テレビではゴールデンタイムのバラエティが流れていて、両親と僕と二つ下の妹はつまらなそうに画面を見つめていた。
「オレ、東京の大学へ行きたいんだけど」
僕が突然そう切り出すと、3人は僕のほうを振り向いた。
「コウちゃん東京行くの?」
妹は驚いた顔で聞いてきた。僕はそれには答えずに両親の反応を待った。
父と母は一瞬顔を見合わせ、父は一言僕に言った。
「中途半端な大学には行くなよ」
今から思えば、僕が遠からずそう切り出すことを両親は予想しており、既に話し合っていたのかもしれない。
父の言葉は日比野家なりの了承の意味だった。
母親は「ある意味、今日が最後の晩餐ね」と僕にとっては身の毛もよだつことをさらりと言ってのけた。
妹も「せいぜい、味わって食べな」と、にやつきながら言った。
僕は食事の終わりまで、とうとう「ありがとう」と言うことは出来なかった。
そんな会話のわずか一週間後に、息子が突然「東京に行ってくる。自転車で」と言い出したのだから、きっと不安になっただろう。
それでも父は「理由はあるんだな」と言い、母は「青春だね」と言ってまだ残っていた夏期講習をサボることを認めてくれた。
二人とも詳しい理由は聞いてこなかった。
ただ妹だけは僕が家を出るとき本気で怒っていた。「まだ一週間しかたってないじゃん。なに考えてんの?」と言う彼女の顔は紅潮していた。
彼女なりの親への気遣いだったんだろう。僕は言い訳せずに、「キッカケが欲しいんだよ」と言って、妹の叫び声を背中に、そのまま家を出た。
出発の前、僕が高井に「なんで東京なんだよ?」と聞くと、高井は「東京までの遠さを知りたいんだよ」と言った。
「自転車であっという間に行ける距離だったら、頑張って勉強するほどでもないだろ?」とも言った。
それを僕は妙に納得して、受け入れた。
細かい道順など一切決めていなかった。高井も「海に出て左にずっと行けば東京だろ」と言っただけだった。
結局僕らは2日間走ったところで地元に引き戻した。
左にそびえる崖は一層険しくなり、道の勾配もきつくなってきたところだった。
「なぁ!」
前を走る高井が息を切らせながら大声で僕に呼びかけた。
「あん?」
僕も息を切らせながら大声で言葉を返した。
「東京、遠いなぁ!」
右の車道を大型トラックが2台続けて走り抜けていく。僕は2台が走りすぎるのを待って「そうだね!」と叫び返した。
「勉強さえすれば、この山越えられるんだよなぁ!」
高井が前で叫び続けている。僕はもう何も言わなかった。
「やっぱ東京は遠いよ」
高井の最後の一言は聞き取るのがやっとなほどの声だった。
高井がブレーキをかける。
僕もブレーキをかけた。
目の前には今までと似たような道がずっと続いていた。横からは何台もの自動車が通り過ぎていく。右側に広がる海は僕らの地元の海と変わらない青さだった。
「何キロくらい走っただろう?」
僕がそう聞くと、高井は
「偏差値で言うと10くらいじゃない?」
と言った。
「そっか、まだ10足りないか」
と僕が言うと、高井が笑った。僕もつられて笑った。
勉強してやるか、と思った。