88話 将軍と破壊者と竜姫(1)
そこは氷の神殿だった。
床も壁も、柱も、天井も。
全てが氷で造られた極寒の領域。
そこに、一人の男が足を踏み入れた。
辺りを見回せば、分厚い氷が鏡面の様に男の姿を映した。
大陸において最も強い男。
悪魔と畏れられた男。
ラクサーシャ・オル・リィンスレイが聖域を侵す。
彼の視線の先にはこぶし大の魔石があった。
菱形の魔石を中心として、左右に翼のように魔力が放出されている。
――楔の眷石。
其れは極彩色の結晶。
目の前のそれは、武人であるラクサーシャでさえ心を惹かれる美しさがあった。
同時に、膝を折りたくなる程の威圧感を放っていた。
霊峰ヴァイス・ラヴィーネベルクを魔境としている元凶。
内に秘めし魔力は、ラクサーシャでさえ気圧されるほど。
間近に来れば、改めてその恐ろしさを理解する。
だが、動けないほどではない。
ラクサーシャは手を握って感覚を確かめる。
手は悴んでいたが、魔力を循環させて暖めていく。
先ほどから己の第六感が危険を告げていた。
すぐ近くに強者の気配を感じる。
視線を横に向ければ、久方ぶりの顔を見つける。
ぼろぼろの黒衣を身に纏った男。
拳には聖銀の手甲。
同じく、顔には聖銀の骸骨面。
圧倒的強者の気配。
ラクサーシャは静かに抜刀する。
不死者の狙いは楔の眷石で間違いない。
ならば、戦うのみ。
不死者もどうやら同じ気でいるようだった。
拳に蒼炎を灯し、ゆっくりと息を吐く。
殺気を隠すことなくラクサーシャへ向ける。
戦いの場として、これほど相応しい場所は無いだろう。
楔の眷石によって強化された氷の神殿は、二人の攻撃の余波でさえ防ぎきるほど。
存分に力を振るえる空間だった。
僅かな沈黙の後――ラクサーシャが動いた。
爆発的な魔力の高まり。
瞬魔により己を神域にまで引き上げる。
「――奥義・断空」
竜種をも切り裂く剣閃。
膨大な魔力の奔流は、しかし、不死者には届かない。
たった拳の一振りによって掻き消されてしまう。
次の瞬間には不死者が肉迫する。
上段から振り下ろされた拳を避け、刀を突き出す。
だが、その突きは躱され、反撃に腹部へ拳が突き込まれた。
鈍い音が響く。
見れば、不死者の拳は魔法障壁に阻まれていた。
狙いを予測し、極限まで圧縮された魔法障壁は、不死者の拳を受け止めるに足るだけの強度を誇っていた。
はっと顔を上げる不死者の視界に、笑みを浮かべるラクサーシャが映る。
振り下ろされた刀は、不死者の肩口から胴にかけて切り裂いた。
もう一撃。
欲に負けて刀を振るうも、やはり防がれてしまう。
その動きは鈍ることはない。
致命傷を与えたというのに、不死者はまるで痛みを怯んでいなかった。
危険を感じ、ラクサーシャはその場から飛び退く。
直後、不死者の拳が視界を薙いだ。
反応が僅かにでも遅れていたならば、ラクサーシャの命はそこまでだっただろう。
視線を戻せば、不死者から黒い瘴気が立ち上っていた。
不死者が不死者たる所以。
人間では届かない理由。
それが、この不死性とも言うべき生命力だった。
だが、ラクサーシャは知っている。
その不死性には限界があることに。
アスランのように、目の前の不死者にも限界はあるはずだ。
それがいつになるかは分からないが、アスランの時ほど容易くはないだろう。
不死者を消耗させきる。
それがどれだけ無謀なことなのかはラクサーシャ自身が一番理解していた。
しかし、今回は前回とは違う。
魔力の消耗はほとんどない、万全の状態で臨むのだ。
そう易々と倒れるつもりはなかった。
改めて不死者を見据える。
刀を正眼に構え、その一挙一動を警戒する。
何度も攻撃を加えなければならない自分と違い、不死者の攻撃は全てが致命の一撃。
僅かでも気が緩めば、その瞬間に死が確定するだろう。
瞬魔は継続する強化ではない。
断続的に、必要な瞬間を見極めて強化を施す。
それ故に魔力の消耗は抑えられるが、それでも消費は莫大だ。
ラクサーシャの全力は、不死者との長時間の戦闘には耐えられない。
力は互角。
技量も互角。
だが、不死者と人間では根本的な力に差がある。
それを覆すのは何者か。
「うぉおおおおおおッ!」
気迫に満ちた咆哮。
大地が震える。
踏み締めた一歩は、氷の床を陥没させるほど。
瞬時に不死者へ肉迫する。
横薙ぎに振るわれた刀は不死者の腕に阻まれる。
刀を握るのは右手のみ。
空いた左腕が不死者の骸骨面を捉えた。
確かな手応えを感じる。
ラクサーシャの手には、不死者の骸骨面が砕けた感覚があった。
吹き飛ばされた不死者は壁に叩き付けられる。
その一撃は不死者を殺すには至らない。
だが、その精神を揺るがすことは出来る。
砕けた骸骨面の隙間から、驚愕に彩られた瞳が露出していた。
不死者は邪魔に思ったのか骸骨面を取り去った。
その顔は、存外に若かった。
短く切り揃えられた白髪に、蒼玉のような蒼い瞳。
ラクサーシャを見つめる表情は険しいものだった。
「人の身で、そこまで至るか」
初めて不死者が口を開いた。
そこには称賛の意思が感じられた。
ラクサーシャの強さに対し、素直に感心しているようだった。
「不死者に比べれば、私は温い」
ラクサーシャの謙遜に不死者は苦笑する。
それは事実でもあるが、誤りでもあった。
不死性を抜きにすれば、ラクサーシャの方が格上であることに不死者は気付いている。
己が不死者でなければ負けているかもしれない。
互角以上の強さをラクサーシャは持っていた。
「剣士よ。汝が名前を聞きたい」
「……いいだろう」
ラクサーシャは刀を下げると、不死者の瞳を見つめる。
「私はラクサーシャ・オル・リィンスレイ。復讐者だ」
復讐者。
その言葉を聞いて、不死者は一度驚いた表情を浮かべ、そして面白そうに笑みを浮かべた。
「我が名はロア・クライム。汝と同じく、復讐者だ」
骸骨面の不死者――ロアは再び拳を構える。
「汝の目的。それが楔の眷石であるならば。我は汝の命を奪うことになる」
「ほう、私を殺すか。それもまた、悪くはない……なッ!」
二人は同時に飛び出した。
お互いに限界まで魔力を込めた一撃。
この一撃で勝負を決めるつもりだった。
刀を拳が交差する刹那――竜が吼えた。
「ガァアアアアアッ!」
突然の乱入者に二人は飛び退く。
その直後、神殿の床が大きく陥没した。
恐るべき破壊力を齎した竜は、よく見れば少女だった。
少女は辺りを見回し、楔の眷石に焦点を定めた。
「……閉門の楔じゃない? でも、これは僥倖。先に見つけられるなんて、運が良いの」
ロアと同じく純白の髪。
だが、少女のそれは極彩色の光を帯びていた。
人間にすれば齢十くらいだろうか。
その表情は、年齢不相応な知性を感じさせる。
少女はラクサーシャとロアを見て、気だるげに目を細めた。
竜の牙で作られた双剣を構える。
漆黒の鎧は、生半可な攻撃では傷さえ付けられないだろう。
二人の強者を前にして、少女は臆することはなかった。
むしろ、放たれる気配は同等。
ラクサーシャやロアに並ぶ強者がそこにいた。
だが、少女は武器を構えたままに、ふと気付いたように口を開いた。
「……名前。聞いたから、私も名乗るの」
先ほどのラクサーシャたちのやり取りを偶然聞いていたのだろう。
少女は少し申し訳なさげにしつつ、名乗りを上げる。
「私はシェラザード。竜姫シェラザード・ランエリスなの」
三人目の強者が名乗りを上げ、戦闘が再開する。
楔の眷石を巡る神域の争い。
三つ巴の戦いが始まった。




