86話 裏切りの修道女
ラクサーシャとクロウが霊峰を登っている頃。
コウガに先導され、エルシアたちはレーガンのもとへ向かっていた。
森の中をひたすら歩き続ける。
エレノア大森林と比べれば移動は楽な方だった。
とはいえ、半日も歩き続ければ相応に疲労も溜まる。
ラクサーシャと分かれたのは二日前。
それからずっと歩き続けていた。
レーガンの下に辿り着くには、歩きでは時間のかかる道程だ。
しかし、エルシアたちは問題ないだろう。
ここに至るまでにかなりの場数を踏んで来たのだ。
歩く程度で疲弊することはない。
ただ、一人を除いて。
「はあ、はあ……」
見る者を不安にさせるほど、ベルは疲弊していた。
もともと戦闘向きではない彼女にとって、徒歩で移動することは苦痛そのものだった。
修道女として教会での仕事はしていたが、それでもここまで動くことは殆どない。
「ふむ。お嬢さんや、少し休んだほうがよいのう」
「は、はい……ごめんなさい……」
ベルは息も絶え絶えになりながら頭を下げる。
丁度時刻も昼頃だったため、その場で昼食を取ることになった。
水筒を取り出し、ベルは一気に飲み干す。
歩き疲れた体が僅かに安らいだが、あくまで気休め程度。
疲労は限界に近く、ベルの足はがくがくと震えていた。
「ベル殿。辛いならば、私が背負うくらいは出来るが」
セレスが提案するも、ベルは首を横に振る。
そこまで迷惑を掛けたくないのだろう。
しかし、ベルの回復を待っていてはレーガンの下へ辿り着けなくなってしまうだろう。
すると、コウガが手に赤い光を宿した。
「我が呼び声に応えよ――影の住人」
魔力でもない、異質な力。
それが何物かは分からない。
分からないが、皆を見入らせるだけの気配があった。
コウガはそれを地面に流し込んで術式を刻む。
完成した術式は、どこまでも暗い色をしていた。
何かが蠢いた。
気配に振り返れば、森中の影がこちらへ殺到してきた。
警戒する一同だったが、それは杞憂に終わる。
コウガの編んだ術式へ影が集まっていく。
それはやがて獣の形を成し、彼に擦り寄った。
巨大な影の獣。
王族の馬車を引く馬でさえ、これと並べば霞んで見えるだろう。
それだけの雄々しさと気高さを持ちながら、獣からは生気を感じられなかった。
皆が興味深そうに見つめる。
「これは俺が呼び出した召喚獣です。足が辛いならば、彼の背に乗るといい」
「あ、ありがとうございます」
ベルはぺこりと頭を下げた。
自分が足手まといになっていることが許せなかったが、同時に思い出す。
己は何者であるかを。
そんな感情を抱いてはならない。
ベルは服の下に隠した十字架をきゅっと握り締めた。
コウガは懐から通信水晶を取り出し、マヤとの連絡を取る。
その間、エルシアたちは会話で時間を潰す。
「それにしても、レーガンは何を考えているのかしら?」
「分からないな。だが、レーガンほどの男が事情も無しに動くとは思えない」
「どうかしら。美味しいものにでも釣られているかもしれないわよ」
「レーガンがそんなことをするはすが……」
言い返そうとして、セレスは黙り込む。
彼女の想い人は、時として情けない一面を見せるのだ。
否定しようにも否定できなかった。
他愛のない会話。
それを眺めながら、ベルは自分の役割を考える。
すぐ傍にあるメイスを突然振るえば、無警戒な仲間の一人くらいは殺せるだろうか。
先ほどから、ベルの頭に声が響いていた。
誰にも気取られぬ通信道具。
ガーデン教の十字架。
高度な術式を介して、男が魂に直接呼びかけるのだ。
『魔刀の反逆者がいなければ、不意を付く事など容易い』
それは悪魔の囁き。
あたかも耳元で囁いているかのような感覚。
十字架を手放さない限り、その呪縛からは逃れられない。
『左を見よ。そこの老魔術師程度ならば、お前でも殺せるはずだ』
シュトルセラン・ザナハ。
近接戦闘においては一般人とそう変わらない。
間合いに入ってしまえば恐れるほどの相手ではない。
『さあ、武器を取れ。決心できぬというならば、懐の魔核薬を使えばいい』
心が揺れる。
どれだけ躊躇おうと、最終的には逆らえないのだ。
なぜならば――。
『ベル・グラニア。さあ殺れ。殺るのだ。殺らねば、妹が死ぬぞ。我らが主、アウロイ様の怒りによってな』
ベルは懐から魔核薬を取り出し、仲間に気取られぬように口に含む。
水筒に手を伸ばすも、先ほど飲み干したばかりだったことに気が付く。
顔を顰めつつ、粉末を唾液で湿らせて嚥下する。
不浄の薬がその身を、精神を蝕んで行く。
険しい表情のベルに気付き、セレスが心配そうな表情を向ける。
「ベル殿、やはり辛いの……か……?」
それは突然のことだった。
ベルの魔力が高まったかと思うと、次の瞬間には鈍い音が聞こえた。
振り返れば、シュトルセランが地に伏している。
「な、何を……!」
魔核薬の影響か、それとも本性か。
仲間を殺めたベルは笑っていた。
返り血を浴びて、ニタリと笑っていたのだ。
「なんてことをしてくれたのよッ!」
エルシアが抜刀するも、ベルはすぐさま距離を取る。
魔核薬のせいか、足の痛みも意識の外にあった。
仲間を殺める。
その一瞬で、ベルの精神は狂ってしまった。
焦点の合わない瞳。
それを見て、セレスは察する。
「魔核薬を飲んだのか……? しかし、なぜ……」
意図は分からない。
しかし、シュトルセランが殺されたのは紛う事無き事実である。
敵と認識する他なかった。
ベルは懐から十字架を取り出した。
それに刻まれた術式を見て、エルシアがはっと気付く。
「通信の魔道具……。貴女は、端から裏切る気でいたのね……!」
怒りに震えるエルシア。
シュトルセランには様々な魔術を教えてもらっていた。
大切な仲間を殺されて、冷静でいられるはずがない。
そんなエルシアを嘲笑うかのように、ベルの体を光が包んだ。
エルシアでも見ることの出来なかった術式。
高度な転移魔法が発動され、ベルはその場から姿を消した。
「何なのよ、これ……」
静寂の中、エルシアは呟く。
なぜ、自分ばかりが失わないとならないのか。
世の理不尽が憎かった。
それをさせた帝国が憎かった。
「何なのよ! あたしは、あと何回失えばいいっていうの!?」
落ち着く頃には辺りが暗くなっていた。
今宵は月も雲隠れしていた。




