32話 薄れゆく足跡
馬車で移動を始めて一週間ほどが経過した。
辺りは木々に囲まれ、徐々に緑が深くなっていく。
エイルディーンの豊かな大地によって育まれた自然は、天然の迷宮と言っていいだろう。
この森林地帯はその広大さからエレノア大森林と呼ばれている。
かつては人が住んでいた地だったが、現在では冒険者でさえ足を踏み入れることは少なくなっていた。
王国の南西側にある魔境が徐々に侵食を始め、凶悪な魔物が増えたためである。
エレノア大森林で生きるには、ミスリルプレート級の実力が必要だろうと言われていた。
御者台に座るレーガンは大きく欠伸をした。
しばらくは移動続きで戦闘もほとんどなく、魔物と遭遇したとしても下級の魔物ばかりだ。
せっかくラクサーシャとの訓練で磨かれつつある技術も振るう機会が無く、戦闘欲求ばかりが積もっていく。
魔境に近付いて来ているのだが、魔物の影はむしろ減少していた。
それこそ、街道を通っているかのような錯覚に陥るほど。
静かすぎる森に一同は不安を抱く。
「こりゃ退屈でたまんねぇなあ。前に来たときはもっと魔物がいたってのに」
「魔物がいないに越したことはないけど、静かすぎるのも不気味だな……」
クロウは森林を見回す。
小動物の一匹もいないのは異様で、この森が如何に不自然であるかを物語っている。
この森で何が起きているのか、ラクサーシャたちに知る術はない。
ただ一つ分かるのは、森の深くへ進むほどに違和感が強くなっていくことだった。
前方に霧が現れ、ただでさえ見晴らしの悪い森だというのに更に視界を悪化させる。
一度霧に入ってしまえば脱出することは容易ではないだろう。
ラクサーシャは首を振った。
「このまま進むのは好ましくない。残念だが、これ以上足取りを追うのは厳しそうだ」
「仕方ないし、王都に向かおうぜ。食料の補充もしたいし、馬車もそろそろ修理をしておきたい。王都で少女の情報を得られる可能性も考えられるしな」
クロウが提案すると皆が頷いた。
食料はエリュアスで購入したばかりであるため、まだ余裕はあった。
しかし、いくら美味しいといっても毎食干物を出されてしまっては、飽きが来るのは仕方の無いことだろう。
問題は馬車である。
ラズリスで購入してから酷使し続けてきたため、全体的に損傷が激しかった。
車輪はエリュアスで交換したばかりでまだ問題ないが、荷台の損傷が気になってしまう。
乗ること自体は可能だが、いつ壊れてしまうか分からない状況だ。
ならばこれ以上留まる必要は無い。
馬車は霧から遠ざかるように進行方向を転換し、ラクサーシャたちはエレノア大森林を抜ける。
どこか不自然さを感じる森を抜け出し、そのまま王都の方向へ進む。
あまり深い場所までは入っていなかったため、森から脱出するのは容易だった。
久々の見晴らしの良い場所に、ほっと息を吐く。
「やっぱ森は好かねぇな。洞窟もそうだけどよ、じめじめした場所は合わねぇんだ」
「そうなんですか? 私は森は好きですよ。空気がひんやりして落ち着けますから」
「嬢ちゃんはそうだろうけど、オレはダメだ。なにより、嫌な思い出が多すぎるんだ」
エレノア大森林は魔境に近く凶悪な魔物が多いため、かつてレーガンがここを通り抜けようとした際に酷い目に遭っていた。
洞窟は言わずもがなラズリスの魔石鉱のことで、神話級の魔物にさんざん苦しめられた。
後者は撃退したから良かったが、前者は返り討ちに遭ってしまい死にかけたほど。
後一歩で命を落とす羽目になっていたのだから、良い印象を持つことは難しいだろう。
「俺は森は嫌いじゃないけど、今の場所はちょっと違うんだよな。なんというか、不自然さを感じたんだ」
クロウはエレノア大森林に入ってからずっと不自然さを感じていた。
何者かが、他人がこの地に足を踏み入れられないように魔術を仕掛けていたのではないかと思うほど。
進めば進むほどこの地を避けたいと思うようになっていた。
それに気付いたのはついさっきのことである。
それを聞くと、ラクサーシャたちは先ほどまでの自分を思い返す。
魔物が出ないことを不満に感じていたが、果たしてレーガンはそれほどの戦闘狂だったのか。
自問自答を繰り返すが答えに辿り着けない。
どこか不自然な感覚。
そこでようやく気付く。
この不自然さこそが答えであると。
エレノア大森林では、人の意識を逸らす精神干渉魔法が発動していた。
術中から抜けられなければ、あのまま不自然な感覚に気付かないままだったかもしれない。
呪術めいた魔法の存在に一同は背を冷やりとさせた。
「あれほどの魔法があるとは。大魔法の類か、大魔法具の類か。どちらにせよ、それだけの者がいるということか」
「かぁーっ、意識を無理やり捻じ曲げるなんて禁忌の類だってのに、誰がそんなことをしたんだよ?」
「分からんな。件の少女が貼った結界なのかもしれん」
誰が何を目的としているのかは分からない。
しかし、エレノア大森林に何かがあるということは察せられた。
問題は、先ほどの魔術を解除する方法がないというだろう。
「仕組みが分かったとて、現状ではどうにも出来ん。だが、シュトルセランの協力が得られれば不可能ではないだろう」
「シュトルセランっていうと、旦那の友人の?」
「うむ。かつて王国との戦争の際、私と共に帝国の旗を掲げた一人だ」
王国と帝国の戦争は非常に激しいものだった。
王国軍は王国騎士団のザルツ・フォッカと近衛騎士団のベルトラン・アルトレーア。
帝国軍は帝国騎士団の将軍ラクサーシャと指揮官三人を中心とした騎士たち。
いつまで経っても終わらぬ戦いに、両国の王が停戦協定を結んだのだった。
その時の戦いの最中に一人、賢者として迎えられた者がいた。
賢者とは帝国における名誉階級であり、王子の指南役として賢い者を招き入れるためのものである。
現在の賢者は不明。
だが、それ以前の賢者は未だ存命している。
その名をシュトルセラン・ザナハという。
その精密な魔力操作は魔術の極みと言っても過言ではない。
だが、彼は天性の才能を持っているわけでもない。
長い人生からの経験則によって生み出された魔術理論に依るものだ。
そして、その魔術理論はラクサーシャの奥義にも繋がっていた。
「シュトルセランはおそらく魔国にいるだろう。時期を見て、一度そちらへ行くべきだ」
「魔国ですか?」
ベルは首を傾げる。
あまり聞き覚えの無い名だった。
そんなベルの様子に、クロウが補足する。
「魔国カルネヴァハ。ちょうど王国の北、帝国の西にある小国さ。魔術研究に力を注いでいるから魔国って呼ばれているんだけど、政治形態は王国と同じ王政だ」
「カルネヴァハですか。そう言われてみれば、地図に載っていた気がします」
ベルが納得したように手を打った。
これだけ近い位置にある魔国だったが、あまり動きの少ない国であるためか歴史上での記述が少ない。
それ故に知る者も少なく、認知度の低い国だった。
シュトルセランはそこに亡命するとラクサーシャに言い残した。
狂っていく帝国に愛想を尽かし、荷を纏めて出て行ってしまったのである。
彼はラクサーシャを誘ったが、そのときは忠義を理由に断ってしまった。
「なら、王都についたら魔国についても調べてみるか。情報を整理して、どう行動をするかを決めたほうが良い」
「よっしゃ! オレにも何か出来ることがあったら手伝わせてくれ!」
少女の足取りは途絶え、次の方針は未定である。
王都で情報を得られれば少女を再び捜索しても良いだろうし、なければ魔国に向かうのが得策だろう。
その他にも、調べるべき情報は膨大だ。
クロウは調べるべき事項を順に紙にメモしていく。
セレスと別れてから一月も経っていないが、再会の時は近かった。




