2話 不穏
ラクサーシャは執務室にいた。
久方振りの書類仕事に疲れ、首を鳴らす。
カップに注がれた紅茶を啜るが、紅茶は既に冷えてしまっていた。
窓の外を見れば、月が煌々と輝いていた。
娘は寂しがっていないだろうか。
ラクサーシャはふと、そう思った。
彼には齢が十五になる娘がいる。
名前をシャルロッテと言い、母親譲りの美しい金髪が特徴の少女である。
母親はシャルロッテを産んでしばらくすると体を壊してしまい、娘が一歳の誕生日を迎える前に病気で命を落としてしまった。
だが、シャルロッテは家に一人でいるわけではない。
ラクサーシャは将軍であるため、世話係としてメイドを雇うことは容易い。
護衛の兵士も腕が立つ者を集めており、余程のことがない限り、安全面でも問題はない。
ラクサーシャは書類を急いで仕上げる。
内容は今回の戦果についてであった。
聖典に従い悪魔を討ち滅ぼす。
そんな名目ではあるが、その実は帝国の周辺国に対する蹂躙である。
圧倒的な武力をもって攻め込み、命乞いをする無抵抗の市民を虐殺する。
それが、ラクサーシャに与えられた仕事だった。
彼とて、それを喜んでやっているわけではない。
何度も皇帝に対して考え直すように諫言してきた。
だが皇帝はそれを聞きもせず、方針は変わらない。
そんな帝国に愛想を尽かして去っていく者もいた。
彼の友人もまた、去っていった。
そんな中で、ラクサーシャは方針に不満を抱きつつも去ることはなかった。
彼は帝国に忠誠を誓ったからである。
何があろうと、その誓いだけは決して違えてはならないと心に決めていた。
その信念が、彼を悪魔たらしめていた。
帝国では称えられようと、その外では『魔刀の悪魔』と畏怖されていた。
彼はその事実を、信念を掲げることで目を背けていた。
これでまた、悪評が広がるのだろうか。
ラクサーシャはため息を吐きつつ、ペンを走らせる。
執政官ではないラクサーシャは書類仕事はあまりしない。
彼専用の執務室ではあるが、使う機会など週に一度あれば多い方である。
だというのに手入れが行き届いているのは、よほど管理が行き届いているのだろう。
書類と向き合っていると、不意にドアが開けられた。
入ってきたのは帝国の兵士の一人だった。
ラクサーシャはノックをしなかったことは咎めず、用件を聞く。
「ライエルか。どうした?」
「はーい! 陛下からの伝言で、将軍に今すぐ来るようにだそうでーっす!」
「陛下が……? まあいい、分かった」
ラクサーシャは席を立つと、軽く服装を整える。
部屋を出ようとした彼だったが、ライエルに呼び止められる。
「ねぇ将軍。今度、見世物小屋にでも行きませんかぁ?」
「いや、いい。私は、ああいったものは好きではない」
「そうですかぁ……」
ライエルはがっくりと肩を落とす。
そこで、ライエルは何かを思い出したように顔を上げた。
「あぁ、将軍。アレぇ、あります?」
「……そこの屑籠の中だ。好きにするといい」
「ありがとうございまーっす!」
ライエルはフラフラとした足取りで屑籠に向かう。
彼は酒を飲んでいるわけではない。
爛々と目を輝かせながら屑籠を漁る姿に、ラクサーシャは目を背けた。
「ありましたぁ!」
ライエルが嬉しそうに手にしたのは小さな紙の包みだった。
震える手で包みを開ける。
中に入っていたのは、禍々しさを感じさせる暗い紫の粉だった。
「くひひっ……」
ライエルは紙を口元に運ぶと、傾けて中の粉を流し込む。
口から半分以上の粉がこぼれ落ちるが、気にした様子はなかった。
「あはぁ……あひひ……」
ライエルの様子か豹変する。
焦点が定まらなくなり、体中が震え始める。
異常な光景だというのに、ラクサーシャはそれを眺めるだけだった。
「いひぃっ! ひひっ!」
見慣れた光景だった。
この粉は魔核薬と呼ばれている。
効果はこの通り、高揚感を味わえるというものだった。
魔核薬は帝国内で広まっている薬である。
その材料は秘匿されているが、ラクサーシャは何か悪いものが入っていると感じ取っていた。
こんなくだらないものに惑わされてはならない。
ラクサーシャは魔核薬が支給される度に捨てていた。
だが、何時からかそれをライエルが回収するようになっていた。
「ライエル。お前は……」
言葉を続けようとして、やめた。
今の彼には、何を言っても届かないだろう。
狂ったように笑うライエルを見て、ラクサーシャは額に手を当てた。
ラクサーシャは執務室を後にする。
背後から聞こえる笑い声は、しばらくの間付きまとってきた。
謁見の間に到着すると、ラクサーシャは兵士に促されて中へ入った。
過度な装飾の施された椅子に、でっぷりと太った男がいた。
オークのように醜悪な顔は、厭らしい笑みを浮かべていた。
彼の名をヴォークス・シグルド・シルヴェスタ。
シルヴェスタ帝国の第七十三代皇帝である。
ラクサーシャは彼の前で片膝を突き、恭しく頭を下げる。
武人である彼ではあるが、こういった場での所作も心得ている。
「ラクサーシャ・オル・リィンスレイ。只今、参りました」
「ふん、ご苦労」
そんな英傑を前に、皇帝は鼻を鳴らした。
如何に優れていようと、強大なシルヴェスタ帝国の皇帝である自分には遠く及ばない。
そんな自負から、彼はこのような態度を取っていた。
「リィンスレイ将軍。今日、ここに呼ばれた理由は分かるか?」
「いえ……」
ラクサーシャは首を横に振った。
戦果については書類を仕上げている最中で、他に思い当たるものはない。
「将軍。貴様には娘がいるだろう?」
「シャルロッテが、何か……?」
「心配するな。何か粗相をしたわけではない」
皇帝は厭らしく笑う。
「この間の舞踏会の時、貴様の娘を見てなあ。実に立派に育っているではないか」
「……陛下にお褒めいただいたとあらば、娘もさぞ喜ぶことでしょう」
「ぐふふ、世辞は要らんよ。我は事実を述べたまでだ」
皇帝は厭らしく口元を歪める。
そして、視線でラクサーシャを射る。
「リィンスレイ将軍。貴様の娘を我が貰ってやろうか?」
その言葉にラクサーシャは目を見開いた。
皇帝は自分の娘を欲している。
本来ならば喜ぶべきことだろうが、ラクサーシャは頷くことはなかった。
皇帝はそんなラクサーシャを余所に話を続ける。
「舞踏会の日、我が自ら声をかけてやったのだが、お父様と相談しないといけません、となあ。だから今、こうして話している」
皇帝は本気なのだろう。
ラクサーシャは皇帝の目を見てそう思った。
その目に宿るのは、獲物を狩る猛獣のような攻撃性。
どこか疑問の残る様子ではあったが、冗談で言っている様子には見えなかった。
返答を渋るラクサーシャを見て、皇帝は眉を顰めた。
「ふむ、我では不満か?」
「そんなことは。ですが……」
どうにか断れないものかと思案する姿を見て、皇帝は厭らしく笑い声を上げた。
皇帝の突然の行動にラクサーシャは首を傾げた。
「いや、すまんな。貴様の戸惑う姿が滑稽でな」
謝りつつも、皇帝は笑い続けていた。
やがてそれが収まると、皇帝は口を開いた。
「なに、無理強いはせん。断られた相手を無理に手込めにするような男に見えるか?」
「……いえ」
「ぐふふ、そうだろう」
口ではそう言いつつも、ラクサーシャは皇帝の言葉を信じてはいなかった。
この男がそう簡単に引き下がることなど有り得ない。
警戒するラクサーシャを見ても、皇帝はただ笑うだけだった。
「リィンスレイ将軍。書類を提出次第、次の出撃に向かえ」
「もう次の戦いが決まっているのですか?」
「そうだ。貴様のいない内に会議で決まった」
「そう、ですか……」
「そう落胆するな。これが終われば、しばらくは休暇を取らせてやろう。娘とゆっくり過ごすといい」
「……ご配慮、感謝いたします」
「うむ。下がって良いぞ」
「はっ! 失礼します」
ラクサーシャは一礼すると部屋を退出する。
背後から感じる視線に悪寒を抱きながら。