143話 死に行く貴方に(2)
王城の、月明かりの差し込む廊下。
夜の闇の中で、二人の姿が青白く照らされていた。
ラクサーシャが静かに振り返る。
その表情は至って穏やかで、それが余計にエルシアの心を苦しめる。
先ほどまでの壮絶な表情を覆い隠し、心配かけぬようにと平然を装っているのだ。
だが、それでもエルシアは知っている。
宴の会場で一人、ラクサーシャが浮かべていた壮絶な表情を。
一体どれほどの精神力があれば、ラクサーシャのように強く在れるのか。
自らの命を絶つことを覚悟した彼の、なんと高潔なことよ。
常人では理解しえぬ領域、強靭な精神。
エルシアには、ラクサーシャの自害を止める術は無い。
「っ……」
ここまで来て、エルシアは言葉が思い浮かばなかった。
会場を去って行くラクサーシャに追い付くことに必死で、先のことなど考えていなかった。
沈黙が、余計にエルシアを焦らせる。
自分が何を話すべきなのだろうか。
命を救ってもらったことへの感謝だろうか。
それとも、死なないでほしいと懇願すればいいのか。
エルシアには分からない。
ラクサーシャは何を思ったのか、その場に跪いて頭を垂れた。
まるで、己の首を差し出すかのように。
エルシアはその姿を愕然と見つめる。
「エルシア。今、この場で。私を斬れ」
感謝を告げにきたはずだというのに、ラクサーシャの行動はエルシアの予想とは大きく異なっていた。
それが何故か、エルシアはすぐに気づく。
自分が、ラクサーシャを許すと告げたことは一度足りとて無いのだ。
「人知れず自害するべきとも考えた。戦勝の宴を、私の事情で汚してはならん。しかし……やはり私は、お前の手で殺されるべきだ」
「そんなの、無理に決まってるじゃない……」
旅の最中、ラクサーシャがエルシアの殺気を感じ取れないはずが無い。
薄れていく殺気も、エルシアが戦士として成長したから感じ取れなくなったのだと思っていた。
己がシャルロッテを失って復讐者となったように。
エルシアもまた、強烈な執念を持って復讐者となったのだ。
今こそ、復讐を果たすべきだ。
ラクサーシャは真っ直ぐにエルシアを見つめる。
「不可能ではない。今の私は、先の大戦で不死者としての力を失っている。首を斬られてしまえば、流石に生きてはいられん」
――だから斬れ。
力強い眼光がエルシアを射抜く。
覚悟を決めた男の声は、恐ろしいほどに心に響いた。
首を差し出すように、ラクサーシャは跪いたまま動かない。
その気迫、贖罪を前に揺らぐことは無い。
だが、エルシアもまた動かない。
否、動けずにいた。
言葉がのどに詰まって、あと少しのところで出てこない。
窒息しそうなほどの息苦しささえ感じていた。
震える拳を硬く握り締める。
このまま終わっていいはずがない。
エルシアは仲間たちに託されたのだ。
最後くらい素直に本心を伝えたい。
でなければ、その後の人生を後悔し続けることになってしまう。
エルフの寿命は長い。
一生後悔し続けるなど、耐えられるはずがない。
「あたしは、貴方を斬りたくない……」
その言葉に、ラクサーシャがゆっくりと顔を上げる。
驚いたようにエルシアを見つめる。
「前に、魔国での戦争で貴方を斬った。その感触が、今でも忘れられない」
ラクサーシャ諸共、生体人形シグネを切り裂いた。
手にこびり付いた感覚は、夢にまで現れてエルシアを苛むのだ。
幾度となく悪夢にうなされ、自分が本当に正しいのかと自問自答してきた。
「あたしは確かに両親を殺された。それは、消し去ることの出来ない事実。けれどそれと同じくらい、あたしは命を救われたわ」
ラクサーシャがいなかったら何回死んでいただろうか。
エルシアは己の人生を振り返る。
頼もしい背を見る度に、エルシアは安心感を抱いていた。
エルフ族の殲滅にラクサーシャがいなかったとして。
いずれにせよ、エルシアの両親は殺されていたかもしれない。
彼女自身も殺されるか、帝国で慰み者にされていたかもしれない。
「それに、貴方は悪人じゃない。あたしは、貴方の良い所をたくさん知っているわ」
エルシアはラクサーシャの良い所を沢山知ってしまった。
それ故に、好き好んでエルフを虐殺するような男ではないことも知ってしまった。
ラクサーシャは運が悪かっただけ。
そう考えて、エルシアはラクサーシャへの憎しみを捨てた。
「だから、お願い。殺せだなんて、あたしに頼まないで……」
涙ながらに懇願する。
頬を伝う雫が、月の光を反射して煌いた。
「あたしは、もう憎んでない。許すから、お願い。死ぬなんて言わないで……」
エルシアの本心。
それを聞いて、ラクサーシャはしばらく驚いたように固まっていた。
やがて、ラクサーシャが口を開く。
「すまない。私は、死ぬ以外の選択肢を持っていない」
それを聞いて、エルシアは膝から崩れ落ちた。
もう、止めることは出来ないのだ。
ラクサーシャはこのまま何処かへ去って、そして死んでしまう。
エルシアの様子にラクサーシャも心を痛めたのか、言葉を追加する。
「死ぬならば、自害よりも断罪を求めていた。その方が、私のような男には相応しいと思っていた」
だが、とラクサーシャが続ける。
「エルシア。最後にお前から許しを得られた。これだけで、私は十分だ」
泣き崩れているエルシアに背を向け、ラクサーシャが去って行く。
彼の中では、既に死に場所は決まっていた。
その地に向けて、迷い無く突き進んでいく。
そして、辿り着いた場所。
そこは旧帝国領の中心部。
かつて、ラクサーシャの邸宅があった場所だった。
皇帝の裏切りによって屋敷は焼失した。
それに加え、先の大戦で残った箇所も消し飛んでしまった。
だが、幾らか残っている瓦礫の山が、僅かに面影を残していた。
その内の、やや大きな瓦礫に寄りかかって座る。
空を見上げれば、月が煌々と輝くのみである。
ラクサーシャは静かに軍刀『執念』を鞘から抜く。
そして、自身の胸に突きつけるように構えた。
「復讐を終え、心に穴が開いてしまったようだ。我が刀、軍刀『執念』よ。この穴を、さあ、埋めて貰おう――ッ!」
心臓を貫けば、体中を激痛が駆け巡る。
そして、言いようの無い充足感。
薄れ行く意識の中で、ラクサーシャは大陸の未来に思いを馳せる。
僅かばかりの余力で空を見上げる。
まだ星々が輝いていた。
だが、その先。
地平線を見れば、空が少しだけ明るくなっていた。
夜明けが近い。
ラクサーシャは安堵したように息を吐き出すと、そのまま目を閉じた。