15話 狂宴(1)
気配を殺し、暗い路地を駆ける。
凄まじい速度で進んでいるはずだというのに、風を切る音さえ聞こえない。
そこにはただ静寂があるのみ。
何者も、彼の存在には気付けない。
指揮官シュヴァイ・アロウズ。
帝国軍の三人の指揮官の一人ではあるが、彼は単独で行動することが多い。
だが、それも当然のこと。
彼は暗殺術に長けていた。
彼の任務はラクサーシャの殺害である。
隙を見て毒矢を射れば、ラクサーシャとて生きてはいられないだろう。
問題は、彼に気取られずに遂行できるかということだが。
シュヴァイは南門の近くにある時計台の中に身を潜める。
既にラクサーシャの乗っている馬車に目星は付いていた。
毒矢をつがえ、じっとその時を待つ。
じわりと額に汗が浮かぶ。
広場の足音も、喧騒も彼の耳には届かない。
ただ、己とラクサーシャがあるのみだ。
それ以外に意識を取られる必要はない。
静寂の中、シュヴァイは矢を構える。
汗が頬を伝い、地に落ち――シュヴァイはその場を飛び退いた。
先ほどいた場所に数本の矢が突き刺さる。
矢の飛んできた方向へ視線を向けると、柱の陰に人影が見えた。
「やはり躱しましたか」
露出の多いワインレッドのロングドレス。
絹のような滑らかな長髪を揺らし、シャトレーゼが現れた。
「……シャトレーゼ・シエラか。よもやこの俺に気付くとは」
「シュヴァイ・アロウズ指揮官。貴方には消えてもらいます」
「面白い」
シャトレーゼは懐から短剣を取り出すと、シュヴァイに肉薄する。
素早く振り抜くも、袖を掠めるだけに終わる。
シュヴァイがその隙を狙おうとするも、シャトレーゼは既に間合いから出ていた。
「……存外に速い。これほどの手練れが、まだ帝国にいるとは」
シャトレーゼは身構える。
相手は帝国でも屈指の実力を持つ暗殺者。
生半可な力では適わないだろう。
シュヴァイの姿がブレる。
刹那、背後に微かな気配を感じ、短剣を振り抜いた。
短剣とナイフが交差する。
「くっ……!」
振り抜いた勢いは殺され、押し返される。
シャトレーゼはその勢いを利用して身を捻ると、下段に回し蹴りを放つ。
シュヴァイの足に引っ掛け、地に倒す。
「はあッ!」
短剣を力一杯に振り下ろす。
が、手応えがない。
シュヴァイの姿が空気に溶けて消える。
再び気配を感じ、シャトレーゼは短剣を振り抜く。
腕を絡め取られるが、逆にシュヴァイの体を投げ飛ばす。
追撃に短剣を投げるが、投擲されたナイフに弾き飛ばされる。
シャトレーゼが合図をすると、黒装束の男たちがシュヴァイを包囲する。
シュヴァイはそれを見て感心したように頷く。
「よく統率が取れている。だが、俺は果たしてそこにいるのか?」
不穏な呟き。
刹那、黒装束の男たちが首から血飛沫を上げて倒れた。
包囲されていたシュヴァイが掻き消える。
「幻影魔術……厄介ですね」
シャトレーゼは短剣をもう一本取り出すと、振り向きざまに虚空に投擲する。
短剣が弾き飛ばされ、ゆらりと空間が歪む。
虚空からシュヴァイが現れた。
「随分と勘が良い。完璧でなくとも、この俺を追えるとは。流石は叡智のヴァルマンの妻といったところか」
冷静に評価するシュヴァイにはまだ余裕があるようだった。
本気を出さず観察する様は、シャトレーゼがどのように戦うのかを楽しんでいるかのようだった。
――やはり、地力では差があるようですね。
シャトレーゼはシュヴァイの実力を悟ると、次の段階に移行する。
あまり好ましくない力だが、あるものは使わなければ。
出し惜しみをして死んでしまえば、ヴァルマンに会えなくなってしまうのだから。
「――術式解放。強化・俊敏」
シャトレーゼの腕と脚に術式が浮かび上がる。
紅い光に照らされ、時計塔から闇が薄れる。
シュヴァイはシャトレーゼの変容を見て首を傾げる。
「……なんだ、其れは。人体に術式だと?」
「知る間も無く、散りなさい」
シャトレーゼが身をゆらりと揺らし――踏み込まれた地が爆ぜる。
「ッ!?」
無拍子に近いほどの加速。
鞭のように振るわれた腕は軌道が読めない。
身を低くして躱そうとするが、急に軌道が変わ振り降ろされた。
背中に強烈な一撃を喰らったシュヴァイが呻く。
シャトレーゼの猛攻は止まない。
右へ左へ、上へ下へ。
縦横無尽に振るわれる手足に対応できず、シュヴァイが吹っ飛ばされた。
追撃をかけようとするが、シュヴァイが針を投擲して牽制する。
シャトレーゼは幾つか弾き飛ばすが、一本が肩を掠めた。
シュヴァイは体勢を整えると詠唱を開始する。
「我は影に生き、影に死ぬ――」
隙だらけのシュヴァイにシャトレーゼが短剣を構えて斬りかかろうとする。
が、足に力が入らず膝を突いてしまう。
「これは、麻痺毒……」
シャトレーゼが呟くも、手遅れだった。
体から力は失われ、先ほどのような動きはもう不可能だろう。
体勢が整う前に、シュヴァイの詠唱が完成する。
「――我は影に住まう者」
シュヴァイが虚空に溶けていく。
完全に、気配が消え去った。
シャトレーゼは辺りを警戒するが、鈍った神経は気配を感じ取れない。
よろめくシャトレーゼの腹部に重い衝撃が襲う。
「がぁっ!?」
シャトレーゼの体が時計台から投げ出される。
振り向けば、拳を振り抜いた姿のシュヴァイが笑みを浮かべていた。
「才が、不足していたな」
そんな呟きが耳に届くのと同時に、シャトレーゼの体は石畳に叩きつけられた。