121話 復讐者の刻
その夜は、月が煌々と輝いていた。
帝国への侵攻を間近に控え、ラクサーシャは見張り台で景色を眺める。
遥か前方にはラヴァンガルド砦がある。
相変わらず動きは無く、異様なまでに静かだった。
まるで、平時の関所のように静かだった。
人の気配もあまり感じられず、連合軍を迎え撃てるようには思えない。
あるいは、戦力を温存しているのか。
ラクサーシャは様々な思索を巡らすも、その意図を測りかねていた。
夜が明ければ、後は刀を振るうのみである。
復讐者として殺戮の限りを尽くす。
もはや、彼の人生に娯楽や休息は無いのだ。
戦勝の祝宴もあるだろうが、ラクサーシャはそれに出席するつもりがなかった。
夜の闇の中心で輝く月。
月見酒が出来ればどれだけ良いものだろうか。
ラクサーシャの最後の酒は、クロウと酌み交わしたときである。
彼の心中は穏やかではなかった。
復讐だけを望み、今この時まで戦い続けてきた。
日が昇れば、溜め込んだ殺意を、憎悪を。
そして己の全てを以って帝国を滅ぼすのだ。
軍刀『執念』を鞘から抜き放つ。
切っ先を夜空に向ければ、月光を受けて青白く輝いた。
「随分と遅くまで起きているのね」
ここにも一人、復讐者。
月を眺めるラクサーシャの背に、声がかけられた。
振り返れば、そこにはエルシアがいた。
夜風に靡く煌びやかな髪。
月光に照らされて、幻想的な美しさがあった。
明日に戦争を控え、エルシアも昂揚しているようだった。
瞳に浮かぶのは憎悪の炎。
拳に滲むのは殺意の衝動。
望むのは、ラクサーシャと同様に殺戮だ。
ラクサーシャはエルシアを見て、少しだけ寂しい気持ちになった。
人間で考えれば、彼女はシャルロッテとそう変わらない年齢である。
そんな少女がこのような目つきをすることが、堪らなく悲しかった。
だが、その原因の一端に己が存在している。
ラクサーシャは己の咎から決して視線をそらさず、エルシアに向き直る。
「……貴方は、怖くないの?」
エルシアが問う。
戦争について、ということではない。
彼女が聞きたいのは、その後に待っている死についてである。
「あたしが、貴方を殺すのよ? それだけの実力があれば、約束を反故にして今すぐあたしを殺すことだって出来るはず。あたしを殺さずとも、魔境にでも逃げれば誰にも追いかけられないわ」
だというのに、死を選ぶのか。
エルシアは真剣な表情でラクサーシャに尋ねる。
「己の咎から逃れようと、現世を彷徨う異形の者になるのが仕舞いだ。僅かに生き永らえたとて、そこに意味は無い」
「でも、苦痛を味わうことはなくなるわ」
「私には、咎に背を向けることの方が苦痛なのだ」
ラクサーシャは良くも悪くも高潔である。
無辜の民を殺戮したのは、紛う事無き己の咎だ。
それに背を向けることは決してあってはならないと考えていた。
「た、たとえばっ、あたしが貴方を許すといったら、どうするの?」
「であれば、自害するだろう。私が奪ってきた命は、ただ一人の許しで軽くなるようなものではない」
積もりに積もった咎の山。
そこから一人分が消えたとして、僅かばかりの変化しかないだろう。
ラクサーシャの言葉にエルシアは苛立ちを隠せない。
なぜ、そうまでして死を選ぶのか。
なぜ、それほどの実力があるのに運命に抗わないのか。
――なぜ、あたしはこの男を必死に説得しているの?
「っ……」
エルシアは唇をかみ締める。
その事実は認めたくなかった。
仇敵を許せば、自分が何のために剣を振るってきたのか分からなくなってしまう。
「ぜ、絶対にあたしが殺すわ! 覚悟してなさい!」
エルシアが声を荒げ、走り去っていく。
残されたラクサーシャは、寂しげな表情で月を見上げていた。