112話 安らぎの夜
エルシアが目を覚ますと、外は既に暗くなっていた。
明かりも灯っておらず、深夜であることが窺える。
ゆっくりと、気だるげに体を起こす。
寝癖の付いた髪を手櫛で整えると、エルシアはよろめきながら立ち上がった。
疲労が酷く、足取りが覚束ない。
先ほどの戦闘で受けた傷は跡形も無く消えている。
寝巻きに着替えさせられているのは、体を休めるようにとの配慮だろう。
エルシアはふと、剣が無いことに気付く。
破魔剣オルヴェルが手元に無い。
自分の存在意義を失ったかのように思え、エルシアは焦燥に駆られる。
セレスのような剣術も無い。
レーガンのような腕力も無い。
クロウのような頭脳も無い。
あの剣がなければ、自分に何が出来るというのか。
慌てて部屋を飛び出せば、すぐ近くの柱に剣は立てかけられていた。
安心したように剣を手に取り、抱きしめる。
この剣は、彼女の心の支えでもあった。
「今宵は、月が一段と輝いている」
急に聞こえた声に、エルシアは振り返る。
そこには、壁に寄りかかって空を見上げるセレスの姿があった。
その佇まいは無防備なはずなのに隙が見えない。
剣士としての技量の差。
エルシアは余計に憂鬱になってしまう。
そんなエルシアの心情を感じ取ったのか、セレスはエルシアの横に座った。
しばらく黙って風景を眺めていたが、ふと、エルシアが口を開いた。
「……あの後、どうなったの?」
「クロウが閉門の楔の気を引き、その隙にレーガンと私で足を切り落とした。時間はかかったが、どうにか無力化することは出来た」
「そう」
自分がいなくても戦えている。
そう思うと、エルシアは情けなくなった。
あの時、エルシアは怒りに任せて飛び出した。
挙句、返り討ちにあってしまったのだ。
これでは自ら足手纏いだと主張しているようなもの。
だが、セレスは首を振る。
「エルシアの一撃がなければ、足を切り落とすことは出来なかった。身を挺してまで道を開いたのだから、むしろ誇るべきだ」
「違う。あたしは、無様に返り討ちにあっただけよ」
セレスの言葉も、今のエルシアは受け入れられなかった。
成功よりも失敗が頭に残ってしまう。
装甲を切り裂いたのは手柄だが、その後の対応で誤ってしまった。
「あの男なら、一人で容易く抑えるでしょうね。刀を振るえば天が裂け、魔法を放てば大地を揺るがす。本当に、伝え聞いた話通りよ。閉門の楔だって、あの男から見たら児戯と同じよ」
「しかし、ラクサーシャ殿も一人で全てを出来るわけではない。エルシアに出来て、彼に出来ないこともある」
「それくらいは分かっているわよ。けれど、あたしは嫌なの。このままだと確実に足手纏いになる。それだけは絶対に嫌よ」
足手纏いになることは絶対に許されない。
でなければ、なぜこの戦いに参加したのか分からなくなってしまう。
仇であるラクサーシャに情けをかけられているように思えてしまうのだ。
「エルシアは、まだラクサーシャ殿を恨んでいるのか」
「……分からないわ。あたしは、自分がどうしたいのかさえ分からない」
ラクサーシャはこの戦いが終わったら首を差し出すと誓った。
その言葉に偽りは無いだろう。
だが、エルシアの心が痛むのだ。
本当に、ラクサーシャを殺していいのか。
殺意が抱けない。
今、ラクサーシャは不死者と化した。
生半可な攻撃では殺すことは出来ず、致命傷も瞬時に再生してしまう。
殺すには、ラクサーシャが消耗しきるまで斬り続けるしかない。
エルシアはラクサーシャが死ぬまで剣を振り続けなければならないのだ。
斬って、再生して、斬って、再生して。
永劫とも思える苦痛をラクサーシャは決して拒まないだろう。
ただ罪悪感に顔を歪め、憎悪に染まったエルシアの瞳から視線を逸らさないだろう。
それが、エルシアには耐えられなかった。
既に答えは出ているのだ。
その罪を許す。
この一言で、ラクサーシャはどれだけ救われることだろうか。
しかし、エルシアはその言葉を口に出来ない。
それを言ってしまえば、憎むべき相手を失ってしまう気がした。
エルシアの苦悩を感じ取り、セレスは口を開いた。
「ラクサーシャ殿は、誇り高き騎士だ。己の全てを投げ打ってでも国に尽くす。騎士として、理想的な在り方だ」
その在り方が、セレスを救った。
王国で不遇されて心が折れかけていたセレスだったが、ラクサーシャと出会ったことで立ち直れたのだ。
そんなラクサーシャの在り方をセレスは尊敬していた。
しかし、とセレスは続ける。
「仕えた国が間違っていた。帝国が、ラクサーシャ殿を悪魔にしてしまった。もし彼が王国の騎士だったならば、後世にまで語り継がれるほどの英雄になっていただろう」
神話級の魔物を容易く葬る強さ。
その気高い生き様。
これを英雄と呼ばずして、何と表現すればいいのか。
「私は、そんなラクサーシャ殿が死ぬことが悲しくてたまらない。そうさせた帝国が憎い。ある意味では、私も復讐のために剣を振るっているのかもしれないな」
「帝国が、憎い……」
この戦いが終わればラクサーシャは死ぬだろう。
エルシアが手を下さずとも、腹を切ることは想像が付く。
その運命を覆すことは出来ないのだ。
エルシアの父を手に掛けたのはラクサーシャだ。
それが、エルシアの復讐の種だった。
だが、ラクサーシャにそれをさせたのは何か。
憎むべきは、帝国ではないのか。
悩んでいると、不意にエルシアの腹の音が鳴った。
思えば、気を失ってからずっと寝たままだったのだ。
夕食を食べていないのだから、腹が空くのも道理である。
あたふたと誤魔化そうとするエルシアにセレスはくすりと笑う。
復讐に心を染めようとも、少女らしいところはあるのだと。
「おお、目が覚めたか」
そこに、レーガンがやって来る。
エルシアの傍らに座ると、その手に持った木箱をエルシアに手渡す。
中を空けて見れば、豪快に肉が挟まれたサンドイッチが詰め込まれていた。
「そろそろ起きるんじゃねぇかと思って、メシを作ってきたんだ。さあ、食べようぜ!」
レーガンは両手にサンドイッチを手に取ると大きく一口。
幸せそうに頬張るレーガンに苦笑しつつ、エルシアも一つ手に取った。
一口齧ると、その美味しさに目を見開く。
「美味しい……」
「だろ? やっぱりサンドイッチは肉を挟むのが一番だぜ。ここに酒があれば、もっと良いんだけどなぁ」
そう呟いたレーガンに、セレスが杯を手渡した。
そして、杯にワインを注ぐ。
レーガンは一気に飲み干すと、大きく息を吐き出す。
「かぁーっ、最高だ! やっぱり肉には酒だな」
二人の間に挟まれて、エルシアは仲間のありがたさを噛み締める。
決心は出来ずとも、少しは気が安らいだ。