98話 ラクサーシャの傷心
皇国を出た一同は王国へと向かっていた。
目的地は港町エリュアス。
一度立ち寄ったことのある場所だが、その時はあまり長く滞在することはなかった。
御者台にはラクサーシャが座っていた。
荷車からは楽しげな声が聞こえてる。
長い旅で得た物は、戦力だけではないのだと改めて思い知った。
ラクサーシャは帝国での暮らしが長いせいか、こういった明るい場には慣れなかった。
無論、それが嫌というわけではない。
命の危険がある戦場の方が彼の気性に合っていた。
だが、こういった暮らしも悪くはないとも思っていた。
彼の思考の片隅には、帝国で猛威を振るっていた時の自分の姿がある。
一時でさえ忘れることは許されない己の咎。
荷車の談笑に入ることさえ、失われた命への罪悪感を感じてしまう。
懐からガラス瓶を取り出す。
それは、人を不死者へと変貌させる薬。
神代に存在していたというソレが、罪悪感と同じくらいに彼の脳内を占めていた。
これを飲めば、ラクサーシャは正しく最強の男となるだろう。
不死者に身を堕とすことで驚異的なまでの身体能力と魔力、そして不死性を得られるのだ。
今の時点でロアやシェラザードと短時間とはいえ渡り合えるのだから、これを飲んだときの強さは計り知れない。
今の己は復讐者だ。
復讐者ならば、力を得ることを躊躇ってはならない。
成し遂げることのみを考えればいい。
ロアはラクサーシャに対し、そう言った。
ラクサーシャは良い意味でも悪い意味でも高潔な男だ。
それ故に、人の身であることに拘ってしまう。
既に失われた信念が彼の心を縛り付けるのだ。
これ以上力を得ようにも、ラクサーシャの強さは人間として完成されたものだ。
神代の英雄ヴァハ・ランエリスにさえ匹敵する力。
それを神々の加護も受けずに到達したのだから、ラクサーシャの強さの異常性が分かるだろう。
だが、それでも足りないのだ。
これ以上の高みに至るには、人の身では不可能だ。
ラクサーシャ自身、そのことを強く理解していた。
故に、赤い液体の入ったガラス瓶を捨てることが出来ないでいた。
一年前のラクサーシャならば、迷わずに叩き割った代物。
確固たる信念を持ち、下らぬと一刀両断出来たはずだった。
しかし、今のラクサーシャでは拒むことは出来ない。
ラクサーシャはガラス瓶を懐へ仕舞い込む。
すぐに決心は出来なかった。
そんな自分が、堪らなく不快に感じていた。
自己嫌悪に囚われるラクサーシャに声がかかる。
「なあ、ラクサーシャ。そろそろメシにしようぜ? オレはもう、腹が減って限界だ」
荷車から半身を乗り出したレーガンに苦笑しつつ、ラクサーシャは頷く。
消耗しきった精神を覆い隠し、何事も無かったかのように振舞う。
限界が近いことは、ラクサーシャ自身が一番理解していた。
馬車を止め、一同は食事の準備に取り掛かる。
セレスとエルシアが料理を担当し、残った三人は鍛錬をしつつ周囲の警戒をする。
「よっし、旦那。先ずは俺と頼むぜ」
クロウは虚空から妖刀『喰命』を取り出した。
黒炎は用いず、技量のみを鍛える。
身体能力を魔力で強化するラクサーシャに対し、クロウは魔力とは異なった力で身体能力を高めていく。
ラクサーシャはその力についてクロウから聞いていた。
東国に住まう人間が編み出した特殊な力。
妖力と呼ばれるそれは、魔力の変わりに自身の生命力を消耗するというもの。
魔力を持たない種族だからこそ作ることが出来たものだった。
クロウの持つ妖刀『喰命』は武器の中でも極めて特殊なものだ。
所有者の妖力を喰らい、黒炎へと変換する力。
生み出された黒炎は、常軌を逸した力を秘めている。
霊峰でシェラザードの攻撃を受け止めたのも、黒炎の力によるものだった。
クロウが先手を取って駆け出す。
長い旅の中で鍛えられた彼は、既に剣士としては一流の技量を持っている。
理に適った状況判断から繰り出される一撃は、クロウらしいというべきだろうか。
しかし、技量面では未だ他の皆には及ばない。
ラクサーシャは何度か打ち合うと、その動きを見切って刀を突き出した。
鼻先で静止した剣先に、クロウは両手を挙げて降参の意を示す。
「やっぱりまだ勝てないか。けど、一度くらいは旦那から一本取ってみせるぜ」
「ほう、それは楽しみだ」
やる気に溢れる様子に、ラクサーシャは満足げに頷く。
そして、次にレーガンが武器を構えた。
「頼むぜ、ラクサーシャ」
「うむ」
ラクサーシャはレーガンと対峙する。
旅の仲間では、ラクサーシャに次ぐ実力者だ。
今では能力に見合った武具も得ており、ラクサーシャも本気を出さねば危ういほどだ。
レーガンが戦斧『雷神の咆哮』を構える。
その気迫は、格上の相手でさえ気圧されるほど。
ラクサーシャの額を汗が伝い――紫電が弾けた。
凄まじい速度でレーガンが肉迫する。
一呼吸でラクサーシャを間合いに捉えたレーガンは、躊躇うことなく思い切り戦斧を振り下ろした。
「おらああああッ!」
紫電を迸らせて咆哮する。
迎え討たんと振るわれた刀は、異様なまでに軽かった。
何か意図があるのか。
そう考えるも、レーガンの戦斧が止まる気配はない。
「くっ、うおおおおおおッ!」
レーガンは慌てて戦斧を止める。
このまま振り下ろしてしまえば、ラクサーシャとてただでは済まないだろう。
辛うじて静止した戦斧を引っ込めて、レーガンはラクサーシャを見つめる。
「おい、ラクサーシャ。どうしたんだよ?」
ラクサーシャの表情は、これまで見たことがないほどに歪だった。
そこには強者の風格は無い。
弱りきった一人の男がそこにいた。
手を抜いたわけではないのだろう。
愕然と刀を見つめるラクサーシャを見て、レーガンはそれを理解する。
そこでようやくレーガンは思い出した。
普段の力強い在り方から、気付くことが出来なかったのだ。
最愛の娘を失い、重い咎を背負い、それでも戦う男の内面に。
ラクサーシャほどの男がここまで弱るものなのかと、レーガンは愕然とした。
気まずい雰囲気の中、セレスが食事の準備が出来たことを知らせにやってくる。
声を掛けようとしたところで、ラクサーシャの異変に気付いた。
何事かと尋ねようとしたセレスだったが、レーガンに視線で制止される。
レーガンはセレスの腕を引いて馬車の陰へ移動する。
「レーガン、いったい何があった」
「わからねぇ。けど、かなり参ってるみたいだ。娘のこととか、他にもいろいろと悩んでるのかもしれねぇ」
「ラクサーシャ殿……」
二人はラクサーシャの様子を窺う。
歪な表情をしたまま、ラクサーシャは刀を見つめていた。
その日の食事には会話が無かった。