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後編

クオンから電話があったのは次の日の夜でした。

「今日、時間ある?」といわれてまたワタミで飲むことになりました。

夜勤明けだったので、まだダオのことを伝えていませんでした。すぐにその話をすると

「実はね」とクオンはもったいぶったような顔をしました。

「出来たんです。子供」とクオン。

「え?なにが?」

「子供ができたんです」

「え、おめでた?妊娠したってこと?」

「そうなんです」

「じゃあ、吐いたのはなに、つわりだったの?」

「そうです」

「なんだ~」

ぼくはびっくりしてホッとしました。なんだ、ただのつわりか。そして聞くと、もう2ヶ月ということでした。

「ということは学校を卒業して、一回ベトナムに戻って出産するってこと?」

「たぶんそうなると思います。せっかく卒業まであと少しまで来ましたので」

「そっか。そっか。元気な子が産まれるといいな」

「はい」

「じゃあ今日は乾杯ということで」

というわけでその日はダオを呼ばず、男二人だけで乾杯をしました。

「でもダオが向こうに戻ると、クオンはどうするんだ?」

「ぼくもいっしょに帰ろうと思います。子供が少し大きくなるまではと向こうにいようと思って」

「うん。なるほど。それがいいよ」とぼくは答えました。正直すごくさみしかったですが。

「で、ダオはこのままバイト続けるの?」

「辞めさせようと思ってます。赤ん坊に何かあっても困るし。それにあいつ、血圧が最近高いんです」

「そうなの?」

「はい」

「そっか、じゃなおさら安静にしないとな」

「そうなんです」

「そのぶん頑張れよクオン。お父さんになるんだから」

「そうですね」

クオンは頭をかきました。


三日ほどして夜勤の日、ダオと休憩が重なったので、おめでとうと伝えました。

「ありがとうございます」ダオは元気そうな顔をしていたので安心しました。

「よかったね」

「すぐに伝えず、すみませんでした」

「いやいや」

「でもちょっと早かったと思ってるんです、子供出来るの」

「ん?」

「いえ、もう少ししてからでも良かったんですけどね。結婚してからとかでも」

「まあねえ。でも意外といいかもよ、早くに子供を産んでしまったほうが後で好きなことできるじゃん」

「そうでしょうか?」

「うん」

「子供が産まれたら向こうで日本語学校の先生になろうかな」

「うん。いいんじゃない。ちょっと手が離れるようになれば、なれるよ」

そういうとダオは微笑みました。

「がんばろう。わたし」

「そういえばクオンも一緒に帰るみたいだね」

「そうなんです。実はそう考えてるみたいで。なんかすみません。こっちの都合で」

「そんな気は使うなよ」

なんというか気を使われると悲しくなるので、やめてくれと思いました。でもたしかに一気にさみしくなるな、と思いました。せっかく出来た数少ない心を開けた友達だったので、こんなに早くに離ればなれになることになるとは。しかも国内ならともかく海外とは。でも、と思いました。

「そうしたらさ、いつかおれ、ベトナムへ行くよ。二人に会いに」

「えっ」

「その時は案内してよ。おれ海外って行ったことないし、英語とかもしゃべれないけど」

「もちろんです!来てくれたら、わたしたちが案内します」

「約束ね」

「約束です」

「その時は二人の子供とか見れるんだろうな~」

「そうですよ」

「なんか嬉しいな」

そんなことを話しているとまた始業の時間になりました。

「じゃ、ダオまたね!あ、あとなんか血圧高いらしいじゃん。子供もいるんだから、無理するなよ」

「ありがとうございます」といってダオは笑いました。

だれもが安心する笑顔というのでしょうか。例のあの必殺の笑顔で、ぼくはちょっと心が和みました。ああいう笑顔ってきっと苦労してきた人にしかできないんだろうなと、きっと幼いころからの苦労や仕事や、勉強など、一つ一つを厳しい環境で乗り越えて来た人の笑顔なんだろうなとぼくは思うようになりました。だからこそ、その笑顔を向けられた側は癒されるのでしょう。

そしてぼくは、自分が突然した発言だったけれど、言葉にしてみたらなにか現実味が出てきて、ベトナムの街を三人で歩くことが楽しみになりました。初の海外旅行はしかも一人旅はベトナムで決まりだと思いました。


でも、その約束が守られることはありませんでした。


その日、夜勤のぼくはじゃがいもの皮をひたすらむき続けるという仕事をしていました。

クオンは夜勤ができないのでいなくて、ぼくのはす向かいにはダオがいました。ダオもひたすらじゃがいもの皮をむいてはコンテナの中に放り込んでいました。ぼくはじゃがいもがこんな風に扱われているならコンビニのポテトサラダは二度と食わないと思っていました。


そのとき突然、バタンッという音がしました。ぼくははっとして「なんだ?」と思いました。するとはす向かいのダオが床に倒れていました。


みんながいっせいにダオのところに駆け寄って、口々に声をかけたのですが、ダオは完全に気を失っているようで反応しませんでした。すぐに救急車が手配され、ダオが運び出されました。運び出される時もダオはまったく動きませんでした。ぼくは呆然としていて、これはただ事ではないと感じていました。


クオンはダオが倒れたのを聞いた後、すぐに病院に行って意識を取り戻すのをずっと待っていたそうです。

夜勤終わり、ぼくが病院に行くと面会謝絶でしたが、クオンが病室の外で待っていました。

「クオン・・」

「向山さん・・」

ぼくはなんて声をかけたらいいのだろうかと思いました。

「大丈夫。ダオはきっと戻ってくるよ」その時もダオは意識を取り戻してはいませんでした。ぼくは月並みなことしかいえませんでした。

「大丈夫。大丈夫だよクオン。おまえを置いては行かないよ」

「はい。大丈夫。信じてます」クオンは祈るような顔をしていました。

「大丈夫。きっと助かる」

なんの根拠があってぼくはこんなことを言っているのだろうと思いました。きっと助かる。なんの根拠もない言葉だと思ったけれど、でもそれをいうしかありませんでした。ぼくたちはその後話もせずにずっと病室の外で黙ったまま、ダオが帰ってくるのを待っていました。


けれどダオが帰ってくることはありませんでした。

突発性の心筋梗塞でした。クオンに聞くと以前からダオは胸の痛みも訴えていたそうです。でも会社の健康診断でもひっかからなかったため、あまり気にせず仕事と学校のかけもちをやっていたのです。血圧が高いとクオンに言われたときに、早めに病院に行くのを勧めておけば、とすごく後悔しました。

ダオはこんなことがあるのだろうかというくらい本当にあっさりと死んでしまいました。本当にあっけなく。残されたものの現実感すら置き去りにして。ぼくはクオンになんの言葉もかけられず、自分の無力さを感じていました。まるで波の上に乗った木くずのように、ゆらゆらと運命の上を揺れるだけ。あまりにも無力でした。


ダオが亡くなってから次にクオンにあったのは火葬場でした。葬儀は本国でするそうでここでは火葬だけがされることになったのです。

クオンは悲しみやつらさを一身で感じているのに、しゃんとしていました。しゃんとして、悲しみやつらさを見せないようにしていました。

「クオン」と声をかけるとクオンは

「向山さん、来てくれてありがとうございます」とお辞儀をして、ちょっとだけ微笑みました。

ぼくはそのやさしさがすごく切なくて、ぐっと泣きそうになりました。

でもぼくがここで泣いちゃいけないと思って我慢しました。

ぼくが決壊したらせっかくがんばっているクオンが泣いてしまうと思ったから。火葬の後、クオンは遺骨のダオと、そしてもうほとんど灰でしかなかったけれど、赤ん坊の遺骨を大事そうにポケットに入れました。ぼくはそんなクオンに結局その後なんの声をかけることもできませんでした。


ぼくはその日家に帰って、一人の人の命の重みというものを考えていました。たった一人、いや二人というべきでしょうか、ぼくたちのそばから居なくなった。それだけのことがどうしてこんなに悲しいのだろうと思いました。ぼくはクオンとダオとぼくの三人で最初に飲んだ日のことや、ベルトコンベアーに乗ってくるサラダを必死になって作ったこと、嘔吐をしてぐったりしたダオに肩を貸して医務室まで運んだことや、ベトナムの街を案内してくれる約束のことなどを思い出していました。

一緒にいた時間は短かったのに、ダオの存在はぼくの中で大きな位置をしめていて、もう会えないかと思うとさみしさが波のように押し寄せて来ました。でもぼくですらこんなにさみしいのに、クオンのことを思うと、あの時火葬場で無理をしてぼくに微笑んでくれたクオンのやさしさに、涙がこぼれました。

ぼくは一瞬クオンに電話をしようと思ったけれど、でもやさしいクオンのことだからきっとあの火葬場で笑いかけたみたいにぼくに気を使うに違いないと思ったから、やめました。ぼくはどうしていいかわからず、たまたま台所にいた母にそのことを話しました。母は

「時間だよ。時間だけが救ってくれるんだよ」と言いました。

「時間・・。こういう経験ある?」と聞くと

「いっぱいあるよ」といいました。

「でもダオさんは若かったね。若い死はすごくつらいんだよ」

「若すぎたもんな」

「ああ。若すぎたね、ダオさんは」

クオンはいま寮でどうやってこのつらさとたたかっているのだろうかと思いました。

ぼくの胸にダオのあの必殺の笑顔が広がりました。どんな状況でもぼくを癒してしまうあの笑顔が。ぼくはさみしい、と思いました。もう一度会いたいと思いました。


最後の日、ぼくは成田行きの便が出るバス停までクオンを送っていきました。技能実習をいったん終了させて、クオンはベトナムへ帰ることを決めたのです。ぼくは元気出せよとかさみしいよなとかそういうダオを思い出させることは言えず、バス停までの一時間、班長の悪口や、職場の高齢のおばさんがほかのおばさんとけんかをしたことなど、核心に触れないことを話しました。

バス停に着くと、クオンが

「向山さん、いままでありがとう」といいました。

「なに。いやこちらこそありがとうな。クオンと一緒にいれてよかったよ」

「ぼくも向山さんと一緒に仕事が出来てよかったです。楽しかった。またいつかベトナムに来てください」

「うん。そうする」

バスが来るまであと10分ほどでした。

「いろいろ謝りたいことがあるけど、時間がありません」

「おれもクオンともっと話したいよ」

そしてぼくは言いました。

「クオン。ダオはさ、おれたちの中で生きてる。心にしっかりとダオはいる。おまえがベトナムに行ってもおれの心の中にはクオンもいる。出会えてよかったって本当に思ってるよ」

「はい。わたしの心の中にもしっかりと向山さんがいます」

「ありがとう、いままで。またいつかな」

「はいまたいつか。必ず会いましょう」そう言っているうちにバスがやってきました。

「じゃあな」するとクオンが

「向山さん」といって封筒のようなものをカバンの中から取り出しました。

「迷惑おかけしました」クオンは封筒をぼくに渡すと深く頭を下げました。

「迷惑だなんて思っていないよ」

「さよなら」

「さよなら。元気でな」

「向山さんも」

クオンがバスに乗り込んで扉がしまりました。バスは成田空港へ向かって出発していきました。

ぼくはクオンが最後に渡してくれた封筒を開きました。きっと手紙だろうと思っていたら、やっぱり手紙が入っていました。手紙にはクオンの不慣れな日本語ですべてひらがなの短い文章が書いてありました。そしてその手紙といっしょに10万円の現金が入っていました。


むこうやまさん、うそついてごめんなさい。おかねぬすんだのわたしです。ほんとうにごめんなさい。むこうやまさんにぜんぶかえします。だお(ダオ)のことでおかねひつようでした。でもわたしじぶんがわるいにんげんだとおもいました。わたしずっといえなかった。むこうやまさんやさしくしてくれてありがとう。ほんとうにごめんなさい。


ぼくは衝撃を受けました。そうか、クオンだったのか。そうかと思いました。クオンが犯人だったとは。

しかしその手紙を見ていると、ぼくはダオの育ったベトナムの貧困のことや、クオンの見てきた世界というものがぼくの想像をはるかに超えた世界だったのではないのだろうかと思いました。想像をはるかに超える貧困の中で、日本行きを決意し、お金を貯めて日本へ来たクオン。本国に送金し続けたクオン。日本をキラキラしているという言葉で表現していたダオ。

ぼくたちの知らない、貧困の世界というものがこの世にはあって、その人たちにしかわからない、つらさや苦しみやずるさがあるような気がしてぼくは泣きました。

そしてむかしどこかで貧の世界というものはわたしたちには理解できない部分があってわたしたちには想像できないものがあるという誰かの言葉を思い出しました。

でも違うと思いました。クオンは最後にちゃんと心を開いてくれたじゃないですか。こうしてお金を返してぼくに謝って。ぼくたちはまだ分かり合える途上にいたのかもしれないけれど、わかりあえない人間同士などいない。ぼくはそう思いました。


ぼくはクオンにさよならを言いました。

クオン。いつかまた会おうな。おまえのいるベトナムにおれは必ず行くから。おれたちはずっと友達だから。離ればなれになってしまったけどおれもおまえもがんばっていこう。


ぼくは行ってしまったバスのほうを、ずっと見ていました。



おしまい


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