前編
ぼくがベトナム人のクオンと出会ったのはオカジマフーズ(仮名)という食品加工場で働いていた社会人一年目のことでした。
せっかく親に大学まで行かせてもらったのに、ほとんど通わなかったため単位がまったく取れず、大学3年生の時に中退し、そして一年間家でブラブラしてたのですが、さすがに周囲の視線が厳しくなってきてぼくはとにかくどこか就職口をと、探していたところに月給27万円(夜勤あり、二交代制)の求人が飛び込んで来たのです。
一年間、親のすねかじりで生きていたことが死ぬほど申し訳なかったぼくは、一も二もなくこの27万円の求人に飛びついたのでした。そこはおもにコンビニに出すパック詰めのサラダを作る工場で、正社員が半分、バイトが半分くらいで、全職員の三分の一くらいが外国人でした。
まあともあれぼくは正社員として就職できたわけですが、とにかく最初は仕事を覚えろということで、ぼくはひたすらベルトコンベアーに乗って流れてくるサラダの上に二枚のサーモンを乗せるという仕事を任されました。
その時ぼくの隣りについて作業を教えてくれたのが、ベトナム人のクオンでした。
クオンは小柄なベトナム人で、やさしそうな印象を与える男でした。彼は技能実習生としてこの工場に勤めているらしく、ゆくゆくはお国に帰るのだと教えてくれました。
お昼にいっしょにご飯を食べたり、職場からの帰り道をいっしょに歩いたりしているうちにクオンとはだんだん仲良くなりました。
ぼくは地方の大学に行っていたため、こちらには友達があまりいなかったので、なんというかはじめての友達みたいでうれしかったです。
ぼくはクオンからベトナムの話を聞いて、あんまり魅力的に話すものだから、ああ、一度行ってみたいなと思うようになっていました。
土曜日の夜でした。
家でゴロゴロしているとクオンから飲みの誘いの電話がありました。特にすることもなく次の日も休みだったぼくはOKして、待ち合わせてクオンの住んでいる寮の近くのワタミに行きました。
二人で談笑しながらしばらく飲んでいると、クオンの携帯がピロピロなりました。外国の言葉でしばらく話して電話を切るとクオンは
「一人来るけどいいですか?」といいました。
人数が多いほうが楽しいかなと思ったし、そういわれてはなんとなく断るのが悪いようだったので、ぼくは「いいよ」とうなずきました。電話の後で
「誰が来るの?」と聞きました。
「会社の女の子です」とクオンは答えました。
女?誰だろう?と思ってぼくのテンションはにわかに上がりました。
知っている子だろうか?待ち遠しくなりました。
30分くらいして現れたのは20歳くらいの女の子でした。一目で外国人とわかる浅黒い肌をしていて、ぼくは一度見たことあるかなくらいの感じで、はっきりとは記憶にありませんでした。
彼女は
「こんにちは」とペコリと頭を下げました。
「ダオです」とクオンが紹介してくれました。
「向山さんこんにちは」とダオはいいました。
「ぼくの彼女なんです。すみません。突然呼んでしまって」とクオン。
「いやいや。あどうぞ、座ってください」とぼく。
ダオはクオンの隣に腰を下ろしました。
クオンの説明ですと彼女も同じベトナム人だそうでした。それらしい浅黒い肌に、長い黒髪。ジーパンにTシャツというしゃれっ気のない出で立ちで、特に美人というわけではありませんでしたが、笑顔がとてもきれいで印象的でした。
ダオがベトナムから日本に来たのは1年前ということでした。日本語学校に通う留学生で、生活費を工面するためにうちの工場で働くようになったそうです。働く時間帯の違うクオンとは友達の紹介で知り合ったそうです。
ダオが日本語学校を卒業したら結婚するつもりなのだと教えてくれました。
「ベトナムで?」
「とりあえず日本でと思ってます」とクオン。
「せっかく日本語も覚えたし、うまくいけば、このまま住もうと思ってます」とクオンはいいました。
そしてこっちでお金を稼いで本国へ仕送りをしている、もうちょっと稼げるようになれば家族も楽になると、ベトナム人はやさしい人間が多いというぼくの印象ですが、クオンもそういう人間なんだろうなと思いました。
「あたし、向山さんとちゃんと話すのはじめてです」とダオ。
「うん。いつも何時から働いてるの?」とぼく。
「7時です。夜の。それで12時まで」
「で、昼間は学校ってこと?」
「そうです」
「たいへんだね」
「まあ、少し」
「そっか~」
「でもベトナムではこれくらい普通です」
「どうして日本に来ようと思ったの?」
「なんででしょう。小さいころからこっちに来るのが夢だったんです。あたしのうち貧乏で、日本ていつもキラキラしてたから」
「キラキラ?」
「うん。なんていうかみんなお金持ちで、差別がなくて、楽しそうで、ベトナムと全然違ったんです」
当時の、ダオが小さいころのベトナムと比べれば、そういう風に見えたんだろうかと思いました。でもそれはきっと間違っているよとぼくは思いました。
「で、来てみてどうだった?」
「正直、学校とアルバイト両立はきついです。でも向こうみたいにその日のご飯にも困るようなことはないし。だから好きです」
「なるほど」
「ダオは日本語学校の先生になるのが夢なんです」とクオンがいいました。
ぼくはこんなに日本語がうまいのならその夢は実現すると思いました。(話をスムーズに進めるためにダオにも一般的な日本語をしゃべらせていますが、実際のダオの日本語はもっと未熟でした。でも一年間の努力で到達したレベルとしては、ほかの留学生よりはずっときれいな日本語を話したと思っています)
「その夢、手が届きそうだね。日本語学校って、こっちの?こっちで働くの?」
「そうできればいいなって思ってます」
「そっか。がんばんなよ」
その晩は実に楽しく飲めました。クオンもいい奴だし、ダオも心の優しそうな人間でした。こんな二人に囲まれていると、自分もなんだかいい人間になったような気持ちがして嬉しかったのを覚えています。
そんないい気持ちでいたのに、次の週、嫌な事件が起こりました。
ぼくたちの給料は20日払いで、その日は21日、ぼくは貯金の分だけ別の口座に入れて残りのお金、10万円を財布に入れたままにしていました。
そして本当に失敗したと思ったのですが、職場の更衣室のロッカーに着替えと財布を入れていつもの癖で鍵をかけるのを忘れていたのです。
そして帰るときにロッカーを開けて財布を開いたら、財布の中の10万円がそっくり無くなっていたのです。正直この時のぼくの絶望といったらありませんでした。目の前がまっ暗になり、どうしようと思いました。生活費がそっくりいかれたわけですから。今月どうしよう。ぼくは泣きそうになって死ぬほど落ち込みました。
で、自分の不注意とはいえ、ぼくはすぐ工場長に事の次第を伝えました。
実は以前もこういうことがあったらしく、工場長はすぐに警察に連絡してくれて、警察が来て、その場にいた全員に簡単な取り調べと所持品検査、また指紋などの採取が行われました。
仲間を疑うのは嫌だけれど、たぶんこの中に犯人がいて、そう思うとなおさらショックでした。
結局その日、犯人は特定されず、当然お金は帰ってこず、夜勤以外の全員が職場から帰りました。
で、次の日ですが、さらに嫌なことが起こりました。実はぼくの財布からお金が抜かれた21日、休憩時間以外で、更衣室に行けた人間が一人だけいたのです。
それがクオンだったのです。
クオンはその日、急な腹痛でいったん現場を離れて、更衣室の隣の休憩室で横になっていたのです。
当然そのよくないほうの憶測が噂になって広がり、盗ったのはクオンじゃないかというクオン犯人説が浮上したのです。
でも警察は何もまだ言ってないし、きちんとした証拠があるわけではありませんでしたし、なによりぼくはクオンがやったとは思えなかったし、思いたくもありませんでした。
ぼくは証拠もないのに決めつけるのはやめようと噂話をやめるように言ってまわりました。でもクオンはひどく傷ついてしまって、職場でだれとも話さなくなりました。
「おまえが犯人じゃないのはわかってるからな。大丈夫だぞクオン」と、一人で昼食を食べているクオンの隣に座って、話しかけました。
「なっ、クオン、お前じゃないんだろ?」
「はい。わたしはやってません」
「そうだよな。クオンはそんなことしない。わかってる。なに、人のうわさも70日っていう言葉が日本にはあってさ、気にするなよ。そんな変な噂なんてすぐにみんな言わなくなるから」
「わたしじゃないんです」
「わかってるよ」
「信じてください」
「お前を疑ったりしないよ」ぼくはクオンの肩をつかんでそう言いました。
そんなことで、クオンはずっと落ち込んでいて、職場のほかの連中ともまったく話さずといった時間が長く続いていました。
ぼくは昼食を必ずクオンと一緒に食べ、そしてその話題は出さず、ずっと関係のない昨日の夕飯の話とか、班長の悪口とかをしゃべっていました。
異国で犯人じゃないかと疑われて、みんなからも距離を置かれるというのは本当につらいことだと思いました。
その日、残業でぼくはサラダのパックの底にレタスを敷き続けるという仕事をしていました。
18時半になってようやく仕事が終わり、休憩室に来ると(休憩室の向こうに更衣室があります)これから仕事のダオが、隅っこのほうにでぶどうパンにごまだれドレッシングをかけるて食べるという驚愕の方法で食事をしていました。
おいしいのだろうかと思いましたが、きっとおいしいんでしょう。ここらへんが海外の人だということなのでしょうか。
ぼくは
「お疲れ様」といってダオの横に腰を下ろしました。
テーブルの上に誰でも食べていいように飴が乗っていたので、一つ取って口の中に入れました。
「お疲れさまです」ダオはぼくを見て天使のように笑いました。
ダオは時々、こういうびっくりするくらいきれいな笑い方をして、ぼくにとってそれはちょっとした癒しでした。ぼくは何かありがたい気持ちになりました。
「クオンと話してる最近?」
「はい。毎日話してます」
「落ち込んでるでしょ?」
「はい、ちょっと」
「気にするなって言っておいてよ」
「はい。ありがとうございます」ダオはすみません、という顔をしました。
「学校っていつまでだっけ?」
「もう少しです。あと半年」
「そっか。長いようで短いね」
「そうなんです」
「卒業したらベトナムに帰るの?」
「そうです」
「あ、でもそうしたらもう一回こっちに来るんだ?こっちの日本語学校の先生になりたいんでしょ?」
「そうなんです。でも最近いろいろあって少し悩んでて。向こうで働いてもいいかなって」
「え、そうなの?」
「はい」なんだ、残念だな~と思いました。
「でもそうなるとクオンも帰るのかな?」
「どうでしょうか。クオンも悩んでるみたいで」
「そっか」
なんか聞きにくい雰囲気があるけど、二人の間で何かあったのかなと思いました。
その時でした。グラグラっと建物が揺れました。
また地震だと思いました。ここのところ多いなと思いました。それほど大きな地震ではありませんでしたが、ダオは不安そうな表情をしていました。
「多いですね最近」
「うん」とぼくは頷きました。
「工場に勤めてると余計に怖いよ。いろいろ機械とか多いから」
「本当にそうですね」
「向こうでは地震てないの?」
「ベトナムではほとんどないですよ」
「そっか。また昔の神戸の震災みたいなことが起こらなきゃいいけど」
「神戸でも地震があったんですか?」
「昔ね。もう10年くらい前だけど」
「そうなんですか」
「うん。おれが中学生くらいの時だったかな。かなり大きな地震で、ビルや道路が倒れたりしてね」
「ええ。全然知らなかったです」
「まあ10年前っていうとダオはまだ10歳くらいでしょ。それに日本のことだしね」
そんなことを話していたら、ダオの仕事の時間になりました。ぼくは「時間だ」といって腰を上げました。
「お疲れ様です」
「うん。じゃがんばってね」
「はい。向山さんもゆっくり休んでください」
「ありがとう」
そんな挨拶をして、ダオは本当にしっかりしてるし気遣いのできるいい子だな、と思いながらぼくは更衣室に向かいました。
次の週のことでした。
夜勤のぼくは小便をしにトイレに行きました。
すると隣の女子トイレから「おええええ!おえええ!」という誰かが吐いているような声がしました。大丈夫かなと思って女子トイレをのぞいてみると、ダオがげっそりした顔でトイレから出てきました。
「ダオ!大丈夫?」ぼくは声をかけました。
「あ、向山さん。すみません。大丈夫です」
「吐いたの?」
「ちょっと」
「具合、悪いの?」
「はい。ちょっと」
「ちょっと医務室行こう。一人で歩ける?」
でもふらふらしていたので、ぼくは肩を貸してダオを医務室まで連れて行きました。医務室にいた保健婦に後は任せて、ぼくは仕事に戻りました。顔色の悪くげっそりしたダオを見て本当に大丈夫だろうかと思いました。