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黒月戦記 月の道を渡らなかった者たち 〜帰り道を捨てた俺たちは、まだ来ない勇者を待っている〜  作者: 月白 航


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第1話 黒月が満ちる夜、俺たちはまた一つ村を失った

剣を振るたびに、大切な「帰り道」の記憶が消えていく。


名前を奪う黒月の夜。


帰り道を捨てた者たちの、情緒バトルファンタジーです。

 黒月が満ちる夜、俺たちはまた一つ、村を失った。


「ユノ、下がれ!」


 叫んだ瞬間、俺は自分の失敗を悟った。


 黒い鎧の騎士は、振り返らなかった。


 肩に裂けた赤い布。左手だけ短い革手袋。腰に下げた、刃こぼれだらけの短剣。


 全部、見覚えがあった。


 あいつはユノだ。


 俺と同じ砦で飯を食い、同じ井戸の水を飲み、昨日まで「生きて帰ろう」と笑っていた男だった。


 なのに、黒い兜の奥からこちらを見ている目に、もう何も残っていない。


 名前も。


 声も。


 帰る場所も。


 黒月に奪われた者は、死ぬわけじゃない。


 名前を失う。


 思い出を失う。


 最後には、自分が誰かに呼ばれていたことさえ忘れる。


 だから、あれはもうユノではない。


 そう言い聞かせても、手は震えた。


「シグ!」


 背後からリュナの声が飛ぶ。


 月の祠を守る白衣の少女は、泥に汚れた裾を気にもせず、避難民の列を庇うように立っていた。胸元の月石を片手で押さえ、もう片方の手で、荷車の下に隠れた子どもへ声をかけている。


 泣く子どもはいなかった。


 この世界にはもう、声を上げて泣けるほど体力の残った子どもが少なかった。


「東の砦が落ちた。ここも朝までは持たない」


「わかってる」


「なら、撤退して。今ならまだ間に合う」


 間に合う。


 リュナはそう言った。


 けれど、何に間に合うというのだろう。


 村は燃えていた。


 井戸は黒い灰で埋まり、家畜小屋は崩れ、広場には名前を奪われた者たちが立っている。


 昨日までこの村にいた誰かが、今日の敵になっていた。


 明日には、俺たちもそうなるのかもしれない。


 それでも、荷車の下で震えている小さな手を見た瞬間、俺は月鋼の剣を握った。


 世界を救う力なんて、俺にはない。


 黒月の王を斬る力もない。


 けれど、誰かが逃げる時間くらいなら、まだ稼げる。


 俺は、勝つために剣を抜いたんじゃない。


 誰かが逃げる時間を、少しでも稼ぐために抜いた。


 鞘から白い刃が滑り出る。


 月鋼の剣。


 黒月の闇を斬れる、この世界に残された数少ない武器。


 その代わり、使うたびに代償を払う。


 金でも、血でも、寿命でもない。


 削られるのは、帰り道の記憶だ。


 どこへ帰りたかったのか。


 誰の声を聞きたかったのか。


 誰に「ただいま」と言いたかったのか。


 剣を振るたびに、それが一つずつ消えていく。


「シグ、だめ。もう使いすぎてる」


 リュナが叫ぶ。


 俺は答えなかった。


 ユノだったものが、避難民の列へ向かって走り出したからだ。


 速い。


 人間だった頃の動きじゃない。


 関節の限界を無視したような踏み込みで、黒月騎士は地面を蹴った。黒い剣が振り上げられる。その先にいるのは、荷車から這い出た少女だった。


 俺は地を蹴った。


 月鋼の剣が白く光る。


 黒月騎士の剣とぶつかった瞬間、耳の奥で小さな音がした。


 何かが剥がれ落ちる音。


 ――帰っておいで。


 誰かが、そう言っていた。


 優しい声だった。


 夕暮れの匂いがした。


 湯気の立つ皿と、木の扉と、古い椅子が見えた気がした。


 けれど、顔が思い出せない。


 誰だった。


 誰が俺に、帰っておいでと言った。


「おおおおおっ!」


 俺は剣を押し込んだ。


 白い刃が黒い鎧を裂く。


 黒月騎士が呻いた。


 その声は、かすかにユノに似ていた。


「ユノ……!」


 名前を呼んだ。


 その瞬間、黒月騎士の動きがわずかに止まった。


 届いたのか。


 まだ、名前が残っていたのか。


 だが、黒い霧が鎧の隙間から噴き出した。


 ユノだったものは獣のように吠え、俺の腹を蹴り飛ばした。


 地面に叩きつけられ、息が詰まる。


 それでも、俺は剣を手放さなかった。


 荷車の下で震えていた少女が、泣きそうな顔でこちらを見ている。


 俺は歯を食いしばった。


「逃げろ!」


 少女が走り出す。


 黒月騎士の剣が、その背中を追う。


 間に合わない。


 俺はもう一度、月鋼の剣を振った。


 白い光が、黒い夜を裂いた。


 斬ったのは、敵ではない。


 少女の背中へ伸びた黒い霧だった。


 黒月騎士は数歩よろめき、低く唸る。


 倒してはいない。


 退けただけだ。


 それで十分だった。


 避難民の列が、森へ向かって動き出す。


 老人を背負う兵。


 壊れた人形を抱えた子ども。


 誰かの名前を呼びながら、もう返事がないことを知っている女。


 俺たちは勝ったわけじゃない。


 逃げる時間を少しだけ買っただけだ。


 膝が崩れかける。


 肩を、リュナが支えた。


「無茶をしないで」


「無茶しなきゃ、逃がせなかった」


「だからって、自分の帰り道まで削る必要はない」


「帰り道なんて、もう残ってるのか」


 言ってから、自分の声が思ったより乾いていることに気づいた。


 リュナは何も言わなかった。


 いつものリュナなら、すぐに怒る。


 俺の無茶を叱り、剣を取り上げようとし、傷の具合を確かめる。


 でも、この夜だけは違った。


 リュナは空を見ていた。


 黒月が空を覆っている。


 丸く、黒く、冷たい月。


 光を放たず、世界から名前を吸い上げる穴のように、そこに浮かんでいる。


 その黒い空の奥に、ほんの細い白い光が差していた。


 最初は、気のせいかと思った。


 けれど、リュナの胸元で月石が淡く光り始めたのを見て、俺は息を呑んだ。


 月石は、黒月の夜には光らない。


 そのはずだった。


「……道が、戻りかけてる」


「道?」


 俺が聞き返すと、リュナは唇を噛んだ。


 答えれば、何かが始まってしまう。


 そんな顔だった。


「来てしまうかもしれない」


「何が」


「帰り道を知らない人が」


 それ以上、リュナは何も言わなかった。


 けれど、月石の光は消えなかった。


 黒月騎士が、森の影から再び姿を現す。


 ユノだったものが、黒い剣を引きずりながらこちらへ歩いてくる。


 俺はリュナを庇うように前へ出た。


「逃げろ。時間を稼ぐ」


「また剣を使う気?」


「使う」


「これ以上、何を忘れるか分からないのに?」


「忘れたくないから使うんだ」


 剣を使えば、記憶は削れる。


 それでも使わなければ、誰かの名前が黒月に奪われる。


 俺が忘れるか。


 世界が忘れるか。


 選べるものが、その二つしかないなら。


 俺は、自分の記憶を差し出す。


「ユノの名前を、俺だけはまだ覚えてる」


 黒月騎士が剣を構えた。


 俺も月鋼の剣を構える。


 白い刃が、黒い夜に細い線を引く。


 背後で、リュナの月石が淡く光り続けていた。


 黒月が満ちる夜。


 俺たちはまた一つ、村を失った。


 それでもこの夜、消えたはずの道だけが、まだ細く息をしていた。

第1話をお読みいただき、ありがとうございます。


ユノの名前を覚えている代わりに、シグは何を忘れてしまったのか。


次話では、黒月の夜に光った月石と、「月の道」の秘密が少しずつ動き始めます。


この戦いの続きが気になった方は、ブックマークで追っていただけると嬉しいです。

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