3. 辺境の村の暮らし(アルくん村に担ぎ込まれる)
峻険な嶺が連なり、生きて越える者は稀とされる「死の峠」。その麓にひっそりと佇むソラリス村は、太陽の慈悲を一身に受ける平和な村でした。
しかし、ある夕暮れ時、運ばれてきた一人の少年がその静寂を塗り替えます。
泥にまみれ、死の淵を彷徨いながらも、隠しきれない神聖な美しさを放つ少年――女神の依頼を受けたアル。
彼が身に纏う銀糸の刺繍、そして語られる「東の国」の名。
平穏だった村の日常に、遠い異国の魔法と運命の足音が混じり始めます。
リアナの家へ運び込まれた少年――アルは、清潔なベッドの上に横たわっていた。
村の自警団の若者たちが手伝いに集まったが、皆、アルの姿を見て言葉を失っている。
「……おい、この腕、見てみろよ」
村一番の健康優良児であるハンスが、自身の腕をアルの傍らに並べた。
連日の農作業と薪割りで鍛え上げられたハンスの腕は、赤銅色に日焼けし、筋張っている。
それに対し、アルの腕はまるで磨き抜かれた白磁のようだった。今にも折れてしまいそうなほど細く、透き通るような白さ。しかし、その肌の下には無駄な脂肪が一切なく、しなやかな野生動物のような美しさが潜んでいる。
「痩せすぎだ……だが、この体で、あの『死の峠』を越えてきたっていうのか? 奇跡としか言いようがねえ」
「それに、この顔立ち、この髪……。まるで伝説に聞く『ミスリル・ヘア』じゃないか」
ガランが厳しい顔で指示を飛ばす。
「私語を慎め! リアナ、お湯と綺麗な布を。マントを脱がせるぞ」
ガランが慎重に、少年の体を守るように巻き付いていたマントを解いた。
その瞬間、部屋の中にいた全員が感嘆の声を漏らす。 泥に汚れていた表地とは対照的に、マントの裏側には、眩いばかりの銀糸で、幾何学的な紋様を描き出し複雑な文字がびっしりと刺繍されていたのだ。
「……東の国の、魔法礼装か……?」
ガランは震える手でマントを傍らに置き、すぐさま傷口の処置に取り掛かった。
治療が始まると、リアナは献身的に父を支えた。アルの脇腹の傷は深く、鋭い刃物で貫かれたようだった。 リアナが濡れた布で彼の額を拭う。
すると、意識がないはずのアルの目尻から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……泣いてる?」
その寝顔は、あまりにも神聖だった。 長く密な睫毛が影を落とし、通った鼻筋、薄く形を整えられた唇。この世の汚れを一切知らないかのような美貌。 その瞬間、看病を手伝いに来ていた村の娘たちの間に、言葉にならない熱狂と、ある種の義務感が生まれた。
「リアナさん、私、交代するわ。この子、私が守らなきゃいけない気がするの」
「いいえ、私が! こんなに尊い子が苦しんでいるなんて、見ていられないわ」
「ちょっと、みんな静かにして!」
リアナがたしなめるが、彼女自身も、アルの透明感のある美しさに目を奪われていた。彼はただの行き倒れではない。あまりにも尊い美少年であったからだ。
「東の国」には今も奴隷制度が残っていると聞く。これほどまでの美しさを持ち、魔法のマントを羽織った彼が、何を背負い、どれほどの絶望から逃げ延びてきたのか。そんな予感が、リアナの胸を締め付けた。
ガランがふう、と大きなため息をつき、肌についていた血を拭った。
「……傷は塞いだ。あとはこの子の生命力次第だ。だが、これだけは言える」
ガランは、傍らに置かれた銀糸の刺繍入りのマントを見つめた。
「この子は、長い孤独な旅を続けてきたのだろう。……東の国から来た『魔法使い』か、あるいはそれ以上の存在か」
「剣の一振りも持っていない。あるのはこのバッグ一つ……おそらく、マジックバッグだわ」
リアナは、眠り続けるアルの小さな手をそっと握った。村の若者たちのゴツゴツした手とは違う、柔らかく、けれど冷え切ったその手。
「大丈夫だよ。ここはソラリス村。お日様が見守ってくれる村だから」
窓から差し込む夕陽が、アルの銀髪を柔らかな黄金色に染め上げていた。
夕闇が迫る頃、部屋の空気はしんと静まり返っていた。 枕元で揺れるランプの火と、窓から差し込む琥珀色の残光が混じり合い、アルの銀髪を淡く照らし出している。
「……ん……っ」
小さな、掠れた声が部屋に響いた。 椅子に座って看病をしていたリアナは、ハッとして身を乗り出す。
「……気がついたの?」
アルの長い睫毛が細かく震え、ゆっくりと瞼が持ち上がる。 現れたのは、磨き上げられたサファイアのように深い、紺碧の瞳だった。しかし、その瞳にはひどい混濁と、深い疲労の色が浮かんでいる。
「ここ、は……」
「動いちゃダメ! まだ脇腹の傷が開いちゃうから」
反射的に起き上がろうとしたアルの肩を、リアナが慌てて支えた。 その瞬間、リアナの心臓が跳ね上がった。 指先から伝わる彼の肩は、想像以上に硬く、しなやかだったのだ。華
奢に見える外見の下には、旅の過酷さを物語るような強靭な筋肉が潜んでいた。 思わずリアナは顔を赤らめ、彼との距離の近さにめまいを覚えた。
「ソラリス……村……」
アルの口から漏れた声は、あまりに繊細で、けれど芯のある響きを持っていた。
アルは苦悶に表情を歪め、浅い呼吸を繰り返しながら、ぼんやりとした視線を周囲に巡らせた。木の温もりが感じられる天井、壁に吊るされた乾燥ハーブ、そして、自分を心配そうに覗き込む見知らぬ少女。
「僕の……マントは……?」
アルが不安そうに、弱々しい手で辺りを探る。
「大丈夫、あそこにあるわ。汚れを落として、お父さんが預かってる。見たこともないくらい綺麗な銀糸が使われていたけれど……東の国から来たの?」
「東の国……。そうかもしれないし、もっと遠い場所かもしれない。旅をしてるんだ。」
「……ねえ。名前、教えてくれる?」
リアナが努めて明るい声で尋ねると、少年は少しの間をおいて、静かに答えた。
「……アサミ・アル。アルって呼んで」
「アサミ・アル……。名字が先なのね。東の国の貴いお家の子なの? ……アルくん。私はリアナ。ここは安全だよ。お父さんはこの村一番の猟師だし、私もずっとここにいるから」
リアナが差し出した温かい水が入ったコップを、アルは震える手で受け取ろうとした。 しかし、その指には力が全く入らず、コップが傾きかける。
「いいよ、私が持つから。ゆっくり飲んで」
リアナがコップを支え、彼の薄い唇に近づける。 一口、水を飲み込むごとに、アルの白い喉仏が小さく上下する。その無防備な、しかし洗練された美しさに、リアナは自分自身が水を飲み込むことすら忘れて見入ってしまった。
「ありがとう……リアナ」
アルが微かに目を細めて微笑む。 その瞬間、窓の外で太陽が完全に沈み、世界に夜が訪れた。 しかし、暗闇の中でも、アルの紺碧の瞳だけは、一番星のような凛とした輝きを放ち続けていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
彼が名乗った「アサミ・アル」という姓名の順序。これがこの世界においてどのような意味を持つのか、そして彼が探している「もっと遠い場所」とはどこなのか。今後の展開で少しずつ明かしていければと思います。
ソラリス村に舞い降りた銀色の新星が、これからどんな嵐を(あるいは光を)もたらすのか。どうぞ温かく見守ってください。




