2. アステイア王国辺境・ソラリス村(後編)
お待たせしました。後編です。
科学知識を魔法に転化させるアルの独白にはゾクゾクするものがありました。
絶体絶命の窮地で、少年は「理科室の記憶」を呼び覚ます。
それは、魔法使いが一生をかけても辿り着けない、この世で最も静謐で残酷な物理の極致――。
今、少年の命を賭けた「実験」が始まる。
アルは這いつくばったまま、泥にまみれた右手を無理やりゴブリンへと向けました。
脇腹の焼けるような痛みが思考を鈍らせようとしますが、アルは歯を食いしばり、意識を研ぎ澄ませます。ただ水をぶつけるだけでは駄目だ。質量も速度も足りない。
(なら、どうする? この状況を覆すには……状態変化だ)
彼の脳裏に、前世の理科室で見た分子模型が浮かび上がりました。
今、目の前の水たまりにある水分子(H₂O)は、熱エネルギーを得て活発に動き回り、自由に位置を変えている「液体」の状態。 これを「固体」、すなわち氷に変えるにはどうすればいい?
(答えはシンプルだ。熱運動エネルギーを奪えばいい)
アルは乱れた呼吸を整えながら、魔力の照準を水たまり、そしてゴブリンたちへと定めました。イメージするのは、単なる冷気ではありません。もっと根源的な、物理法則への干渉です。
「……僕の魔力で、この空間の熱を強制的に排除する」
彼の思考が加速します。 まず、魔力をポンプのように使い、水たまりの水を逆流させます。渦巻く水流が蛇のようにゴブリンたちの足元から這い上がり、一瞬でその醜い体を包んだ。 ここまでは物理的な拘束。勝負はここからです。
(さあ、実験開始だ。対象エリアのエンタルピーを急降下させる!)
アルは、ゴブリンを包み込んだ水の中で、無数の水分子が不規則に飛び回っている様子を幻視します。 彼は自身の魔力を、微細な「枷」としてイメージしました。
(暴れるな。止まれ。お前たちの運動エネルギーは、僕がすべて徴収する)
魔力という名の見えざる手が、一つひとつの水分子を鷲掴みにし、その振動を無理やり抑え込んでいきます。 熱を奪われた水分子たちは、もはや自由に動き回るエネルギーを失い、互いの水素結合によって引き寄せられ始めました。
不規則だった分子の並びが、整然とした六角形の結晶構造へと強制的に組み替わっていきます。それは凝固点である0℃などという生ぬるい通過点では止まりません。
目指すは、あらゆる分子の熱運動が停止する究極の静寂の世界。 絶対零度、マイナス273.15℃への急降下。それは、生物としての活動を一切許さない、物理的な「死」の宣告です。
「こおれ……凍れッ!!」
アルの叫びは、物理法則を書き換えるトリガーでした。
「ギ、ギギッ……!?」
ゴブリンが悲鳴を上げる暇もありませんでした。 次の瞬間、凄まじい冷気が爆発。包み込んだ水ごと、三匹のゴブリンを巨大な氷の彫像へと変えたのです。
呼応して、周囲の空気が一変します。急激な吸熱反応により、あたり一帯の大気中の水分までが瞬時に凝結し、キラキラとしたダイヤモンドダストとなって舞い散ります。
パキィンッ!!
大気が悲鳴を上げたかのような、硬質で鋭い音が響き渡りました。 ゴブリンたちを包んでいた水は、一瞬にして白濁した氷塊へと変貌していました。彼らの醜悪な表情も、振り上げられた腕も、筋肉の躍動も、すべてがその瞬間のまま、極低温の牢獄に永遠に閉じ込められたのです。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ……」
なんとか撃退に成功したものの、受けたダメージは深く、極限の緊張から解き放たれたアルの体から力が
抜けます。脇腹の激痛が拍動するたびに、意識が遠のいていきました。
森の静寂を破るのは、二人の足音と、籠の中で揺れる薬草の擦れる音だけでした。
「お父さん、あっちの茂みの奥……なんだか空気がひんやりしない? 珍しい薬草が自生しているサインかもしれないわ」
「ああ、そうだなリアナ。だが気をつけろよ。このあたりは最近ゴブリンの目撃例が多いんだ。……ん? 待て、なんだこれは」
リアナの父・ガランが足を止め、眉をひそめました。 季節は穏やかなはずなのに、前方から流れてくるのは、肌を刺すような場違いな冷気。そして、木々の隙間から漏れる光が、まるで見えない宝石の粉を散りばめたようにキラキラと輝いています。
「……ダイヤモンドダスト? こんな暖かい日に、どうして……」
二人が慎重に藪をかき分けた先。そこには、目を疑うような光景が広がっていました。
「なっ……なんだ、これは……っ!」
ガランが絶句し、思わず腰のナタに手をかけます。 そこには、三匹のゴブリンがいたはずの場所に、巨大な「氷の彫像」が鎮座していました。苦悶の表情で硬直したまま、細胞の隅々までが完全に凍結された化け物たち。その周囲の地面は白く霜が降り、理不尽なほどの低温がその場の時間を止めていました。
そして、その氷の地獄の中心に、一人の少年が横たわっていました。
「お父さん、見て! 子供が倒れてるわ!」
リアナが駆け寄ります。 泥に汚れ、地面に広がった銀糸のような髪。荒い呼吸に合わせて、弱々しく震える蒼いマント。そのマントは、まるで意志を持っているかのように、冷気から主を護るべく幽かな光を放っていました。
「おい、しっかりしろ! ……っ、なんてことだ」
駆け寄ったガランは、少年の顔を覗き込んで言葉を失いました。 泥を被り、脇腹を真っ赤に染めていながらも、その顔立ちはあまりにも浮世離れしていました。透き通るような白い肌、長く密な睫毛。それは辺境の村で一生を過ごしても決して拝めないような、神話の中から抜け出してきたかのような気品と美しさを湛えていたのです。
「……なんて綺麗な子。お父さん、この子が一人でこの化け物たちを……?」
「わからん。だが、この傷は放っておけば命に関わる。おい、リアナ! 止血用の布を出せ!」
ガランの太く逞しい手が、折れてしまいそうなほど細いアルの肩を支えました。 リアナは慌てて薬草の籠から綺麗な布を取り出し、少年の脇腹に当てます。その際、彼女の指先がアルの肌に触れました。
「冷たい……! 体温が急激に下がってるわ。お父さん、早く村へ連れて帰って温めないと!」
ガランは頷くと、宝物を扱うような手つきで、慎重にアルの小さな軽い体を抱き上げました。 「蒼波のマント」が、ガランの腕の中でさらさらと波打ち、不思議な温もりを返してきます。アルは朦朧とした意識の中で、自分を包み込む温かい体温と、父娘の必死な呼びかけを遠くに聞いていました。
(ああ……助かったのかな。……おなかへったな。)
そんな場違いな思考を最後に、アルの意識は深い闇へと落ちていきました。
「大丈夫よ、死なせたりしないわ。……私たちが絶対に助けるから」
リアナの祈るような声を背に、ガランは力強い足取りで村への道を急ぎました。 氷漬けになったゴブリンたちが、午後の陽光を浴びて不気味に、それでいて美しく輝き続けているのを背にして。
こうして、辺境の村ソラリスでの、苦くも鮮烈なアルの新しい物語が、幕を開けたのでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
今回は、転生主人公であるアルが、前世の科学知識をフル活用して強敵を打破する「物理魔法」の真骨頂を描いてみました。
絶対零度(−273.15℃)という概念が、ファンタジー世界の住人にとってどれほど異質で、かつ圧倒的な脅威であるかを感じていただければ嬉しいです。
ここから、アルの新しい日常と冒険が本格的に始まります。
科学と魔法が交差する彼の旅路を、これからも見守っていただければ幸いです!
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