静かなる封鎖 ― 兵站という名の急所
ロンドン近郊の港湾都市。
立ち並ぶ倉庫の影で、ヨシュアは伍秉鑑を伴い、東インド会社がチャーターした補給船の積み荷を冷徹に見つめていた。
「……ヨシュア。船を止めるのは、これだけで十分なのか? 向こうには政府の強力な後ろ盾があるんだぞ」 伍秉鑑の声には、依然として消えない不安が混じっている。
「伍。巨大な軍艦も、胃袋が空になればただの鉄くずだ。 そして、その胃袋を満たすための『兵站』こそが、最も脆弱な急所なんだよ」
ヨシュアの脳内では、かつて自分が学んだ軍事史の教訓と、複雑に絡み合う物流網の構造が、恐ろしいほどの鮮明さで整理されていた。
それはもはや、機械的な演算ではない。
彼が過ちを繰り返さないために積み上げた、地を這うような情報収集と、冷徹な情勢分析の結果だ。
(……あの艦隊に積み込まれる石炭、食糧、そして水。 それらを発注し、代金を支払っているのは東インド会社だ。 だが、私が仕掛けた信用収縮によって、彼らの『支払い能力』への疑念はロンドン市場全体に浸透している)
ヨシュアは懐から、一通の電信の控えを取り出した。
「各港の納入業者へ、既に通告済みだ。 東インド会社の発行する債権は、事実上の債務不履行に陥っているとな。 現金での即時払いができない限り、船には石炭一つ積み込ませない。それが市場のルールだ」
その時、倉庫の向こうから、激昂した声が響いてきた。
艦隊の補給責任者である海軍将校が、港湾労働者たちに詰め寄っている。
「ふざけるな! 帝国の艦隊だぞ! 支払いは後日、ロンドンの本省から必ず行われると言っているだろう! 今すぐ荷を積め!」
「悪いな、旦那。俺たちが信じるのは、目の前の現ナマと、ゴールドシュミット様が保証してくれた『新たな為替』だけだ。 本省がいつ払うか分からん紙切れなど、尻を拭く役にも立たん」
労働者のリーダーが、ヨシュアから渡された確約書を突きつけた。
ヨシュアは静かに姿を現し、将校の前に立った。
「……将校閣下。 軍規よりも先に、経済の道理を学ぶべきでしたね。 不渡りを出した組織のために、誰が命の次に大切な石炭を差し出すというのですか?」
「ゴールドシュミット……! 貴様か、現場を煽動しているのは!」
「煽動ではありません。これは市場における『正当な取引の拒否』です」 ヨシュアの瞳には、かつての無機質な光ではなく、人間の強欲さを知り尽くし、それを制御せんとする者の強い意志が宿っていた。
「貴公らが、清国の民から未来を奪うために使う石炭は、一欠片もこの港を出ることはない。 兵を飢えさせ、船を停めたくなければ、今すぐ略奪まがいの強引な貿易計画を白紙に戻すことだ」
ヨシュアは一歩も引かず、最後通牒を叩きつける。
「やられたら、やり返す。 貴公らが弾薬で世界を脅すなら、私は『兵糧』で貴公らを沈黙させる。 ……十倍返しだ!」
将校は悔しげに拳を握りしめ、石炭を積まぬまま停泊し続ける黒い巨船を睨みつけることしかできなかった。
ヨシュアは一度も目を逸らすことなく、霧が深まる港を見守り続けた。
(……数字で人を殺させはしない。 この経済的な封鎖こそが、俺がこの歴史に介入するための、新たな盾だ)




