孤独な盤面 ― 思考の迷宮
ロンドンの安宿の一室。 ヨシュアは、壁一面に貼り出された相場表と、清国の地図を前に独り、思考の海に沈んでいた。
これまでの戦いで東インド会社の資金源に痛打を与えた。 だが、巨大な帝国というシステムは、傷口を塞ぐためにさらなる冷酷な手段を選ぼうとしている。 ヨシュアの脳裏には、かつての自分が構築してしまった「弱者を切り捨てるための経済モデル」が、忌まわしい影となってちらついていた。
(……まだ足りない。 敵は資本の損失を、国家予算という名の公金で補填しようとしている。 このままでは、俺の攻撃はただの延命処置にしかならない)
以前の彼なら、ここで脳内のシステムに最適解を問いかけていただろう。 だが、今の彼に語りかける機械の声はない。 あるのは、静寂の中で研ぎ澄まされていく、己の直感と経験だけだ。
「……ヨシュア。まだ起きていたの?」 扉を開け、セラフィーヌが温かい茶を持って入ってきた。
彼女の存在もまた、かつての「効率第一」だったヨシュアの世界には存在しなかった変数だ。 一人の人間の温もりが、冷徹な計算を狂わせ、同時に、戦うための真の理由を彼に思い出させる。
「セラフィーヌ、君には見えているか。 この数字の裏側で、どれほどの人間が泣き、どれほどの命が使い捨てられようとしているのかを」
「私には、難しい計算は分からないわ。 でも、あなたの目は、数字ではなく、その先にいる人たちを守ろうとしているように見えるわよ」
ヨシュアは自嘲気味に微笑んだ。 かつての自分は、人を見ず、ただ「現象」だけを制御しようとしていた。 その結果、守りたかったはずの世界を壊してしまったのだ。
(……機械に頼るな。 俺自身の頭で、俺自身の良心で、この歴史の歪みを正すルートを導き出すんだ)
ヨシュアは羽ペンを手に取り、複雑に絡み合った欧州の金融相関図の中央に、力強く一本の線を引いた。 それは、ロスチャイルドやベアリングスといった巨大資本をも巻き込み、東インド会社を孤立させるための、文字通り「命懸けの博打」の筋道だった。
「……見えたぞ。 奴らの金庫の底を抉じ開ける、唯一の鍵が」
ヨシュアの瞳に、かつての無機質な光ではなく、人間としての熱い決意が宿る。 システムに導かれた答えではない。 彼自身が、泥を啜り、血を吐くような思いで辿り着いた、起死回生の一手だ。
「伍秉鑑、林則徐……待っていろ。 歴史という名の不合理なシステムに、今度こそ俺が、血の通った『正解』を叩き込んでやる」
ヨシュアは一気に茶を飲み干すと、再び相場表という名の戦場へ向かって、激しくペンを走らせ始めた。 夜明け前のロンドンに、一人の男の執念が、未来を切り拓く音だけが響いていた。




