受け継がれし算盤(システム) ― サミュエルの倍返し
ヨシュア・ゴールドシュミットがこの世を去ってから、数ヶ月。 ロンドン・シティの「黄金の規律」に、亀裂を入れようとする者たちが現れた。
彼らは、ヨシュアという絶対的な監査官がいなくなった今こそ、自分たちが作り上げた「歪んだ欲望(金融商品)」を世界に蔓延させる好機だと踏んだのだ。
「サミュエル殿。ヨシュア氏の功績には敬意を表すが、時代は変わった。これからは、より複雑で、より実体の見えない『デリバティブ(派生商品)』が富を生む。あなたの古い算盤による監査など、もはや過去の遺物だ」
ゴールドシュミット銀行の会議室。
若き野心的な投資銀行家たちが、サミュエルを囲んでいた。
彼らはヨシュアの傍らで影のように控えていたサミュエルを、ただの「忠実な事務員」だと侮っていた。
サミュエルは無言のまま、主から譲り受けた銀の算盤を、ゆっくりと机の上に置いた。
その動作は、かつてのヨシュアよりもさらに静かで、底知れぬ威圧感を放っていた。
「……過去の遺物、ですか。あなたがたが持ち込んだその『商品』、私も精査させていただきました。……中身は空虚な数字の羅列、リスクを他者に押し付けるだけの、かつてアヘンと呼ばれた毒と何ら変わらぬ不良債権だ」
サミュエルの声は、氷のように冷たかった。
「何だと!? 我々の理論は数学的に完璧だ! 貴様に何がわかる!」
「わかりますよ。……私は一世紀近く、あの方の隣で『世界の帳簿』がどう書き換えられ、誰が涙を流してきたかを、誰よりも近くで見てきたのですから」
サミュエルは、銀の算盤の珠を、極めて正確なリズムで弾き始めた。
ヨシュアの音が「情熱の鼓動」だとしたら、サミュエルの音は「絶対的な審判の秒読み」であった。
「本日、私はゴールドシュミット・シンジケートの全権限をもって、あなたがたの関連企業すべての信用格付けを**『デフォルト寸前(Dランク)』**に変更した。……さらに、あなたがたが隠蔽していた架空資産の証拠は、すでに各国の金融当局へ送付済みです」
投資家たちの顔から、一気に血の気が引いた。
「き、貴様……ヨシュアはこんな強引な真似はしなかったはずだ! 彼はもっと……!」
「……ええ。あの方は、まだあなたがたに『改心』という名の猶予を与えたでしょう。……ですが、私はあの方ほど慈悲深くはありません」
サミュエルは立ち上がり、椅子を蹴り飛ばして詰め寄る男たちを、静かな眼差しで射抜いた。
「やられたら、やり返す。……主がいなくなった隙を突き、この世界に再び不誠実な赤字を垂れ流そうとした罪。その報いを、あなたがたの『財産没収と永久追放』という形で、一文残らず清算していただくッ!!」
サミュエルが放った「倍返し」の口上は、ヨシュアの魂が乗り移ったかのような、凄まじい気迫に満ちていた。
その日、シティの空に浮かんでいた不穏な雲は、サミュエルが弾いた算盤の一撃によって霧散した。
若き投資家たちは、自分たちが挑んだ相手が、ヨシュア以上に容赦のない「システムの番人」であったことを、身をもって知ることとなった。
深夜。
誰もいない執務室で、サミュエルはヨシュアの遺影の前に座った。
「……ヨシュア様。これでいいのですね。……私はこれからも、あなたの遺したこの美しい帳簿を、泥にまみれさせるわけにはいかないのです」
サミュエルは銀の算盤を胸に抱き、静かに目を閉じた。
そこには、主から託された「永遠の黒字」を守り抜くという、孤独で崇高な決意が刻まれていた。




