広東の落日 ― 予兆と布石
ロンドンの喧騒を離れ、ヨシュアは伍秉鑑を連れてテムズ川を臨む場外取引所にいた。 そこは、正規の取引所では扱えない「不確実な未来」を売り買いするギャンブラーたちの巣窟だ。
「ヨシュア、なぜこんな場所へ? 東インド会社の追っ手を振り切るなら、もっと安全な隠れ家があるはずだ」 伍秉鑑は不安げに周囲を警戒する。
「伍、世界を動かすのは宮殿の会議室ではない。 こうした掃き溜めに流れる『情報の澱』だ」 ヨシュアは、壁に掲げられた各国の船荷証券と、乱雑に記された銀の交換比率を眺めた。
彼の脳内には、SF的なスキャナーなど存在しない。 だが、かつての彼が培った、国家予算規模の資金移動を監視し続けてきた「目」がある。 流れる数字の微かな歪みが、巨大な嵐の接近を告げていた。
(……間違いない。 清の国境付近で、茶の仕入れ価格が異常に跳ね上がっている。 これは現地の官憲による取り締まりが、かつてない規模で強化されている証拠だ)
ヨシュアは、ボロボロになった世界地図の一点――広東を指差した。
「伍。じきに広東で火の手が上がる。 お前たちの商館が焼き払われ、全財産が没収される日は、もう目の前だ」
「なっ……馬鹿な! 林則徐という堅物が来るとの噂はあるが、これまでの賄賂でどうにでもなるはずだ!」
「今度は無理だ」 ヨシュアの声は冷たく、そして重い。
「イギリスの銀不足は、もはや外交の範疇を超えている。 彼らは『市場の理屈』を捨てて、『武力の理屈』に乗り換えようとしている。 アヘンの没収を口実に、戦争を吹っ掛けるつもりだ」
伍秉鑑は息を呑んだ。 ヨシュアが見抜いているのは、単なる相場の変動ではない。 大英帝国という巨大なシステムが、その機能不全を補うために、他国を食い破ろうとする「死の兆候」だ。
「……なら、俺はどうすればいい? ただ座って、商売が潰れるのを見ていろってのか!」
「逆だ。その嵐を利用して、イギリスの喉元を締め上げる」 ヨシュアは懐から一通の私信を取り出し、キャンドルの火で封蝋を溶かした。
それは、彼が私費を投じて作り上げた、ユダヤ系金融ギルドへの緊急指令書だ。
「アヘン貿易に依存している全ての商社の信用格付けを、秘密裏に一段階引き下げろ。 奴らが『没収』というリスクに直面した瞬間、ロンドン中の資金が逆流するように仕向ける」
ヨシュアの唇が、不敵に弧を描く。
「伍、お前の商館は私が買い取る。 ただし、名義はイギリス人でも中国人でもない、私の『匿名ファンド』だ。 林則徐の没収という名の『デバッグ』を、奴らの金庫を空にするためのスイッチとして使わせてもらう」
その瞳には、かつての自分が無視してきた「一人一人の生活」を守り抜こうとする、強固な意志が宿っていた。
「やられたら、やり返す。 奴らが清の未来をアヘンで汚そうとするなら、俺は奴らの帝国主義そのものを、このロンドンの市場で破産させてやる!」
窓の外では、テムズ川の霧がさらに深く立ち込めていた。 それは、これから始まる史上最大の「歴史的マネーゲーム」の幕開けを告げる煙のように見えた。




