霧の深淵 ― 姿なき支配者
ロンドンのテムズ川沿い、厚い霧に包まれた一角に、その古びた石造りの洋館は佇んでいた。
ヨシュアは独り、重い扉を押し開けた。
そこは、東インド会社さえも影で操る、欧州金融界の「真の主」たちが集う社交場であった。
広間の中央には、一人の男が暖炉の火を見つめて座っている。
男の名はナサニエル。表向きは高名な銀行家だが、その正体は、国家の興亡を市場の操作一つで決定づける秘密組織の最高幹部であった。
「よく来たな、ヨシュア・ゴールドシュミット。貴公が広東で演じた『喜劇』のせいで、我々のポートフォリオは少々修正を余儀なくされたよ」
ナサニエルの声は、感情を排した氷のように冷たかった。
ヨシュアは男の正面に立ち、その鋭い視線を真っ向から受け止める。
「喜劇だと? 貴公らが銀のために一国の民を病に沈め、軍艦で他国の門を叩き壊そうとしたことがか」
「道徳の話をしているのではない。これは効率の問題だ。世界を正しく管理するためには、時に痛みが必要なのだよ」
ナサニエルは立ち上がり、壁に掛けられた巨大な世界地図を指差した。
「貴公は、過去の因縁に縛られすぎている。かつて貴公がこの組織から離反し、理想を求めた結果がこのザマだ。我々は、この19世紀という『盤面』を、完璧な数理で支配しようとしている。貴公のような不確定要素は、排除せねばならん」
ヨシュアの拳が、怒りに震える。
かつてヨシュアが未来の知識に触れ、この時代で「システムの歪み」に立ち向かおうと決意した背景には、常にこの「姿なき支配者」たちの影があった。
奴らは人間を数字としてしか見ていない。
「……管理だと? 貴公らがやっているのは、ただの略奪だ。人の命を利息に変え、未来を担保に取っているに過ぎない」
ヨシュアは、男の前に一通の契約書を叩きつけた。
「これは、貴公らが極秘に進めていた、清国への『戦時公債』の裏付けとなる銀行間手形だ。これに署名された担保資産は、既に私が市場で空売りを仕掛け、紙屑に変えておいた」
ナサニエルの眉が、初めて微かに動く。
「……正気か。それは、貴公自身の破滅も意味しているぞ」
「破滅なら、かつて一度味わっている。今度は、貴公らの傲慢な支配を道連れにする番だ」
ヨシュアは冷徹な微笑を浮かべ、男に最後通牒を突きつけた。
「やられたら、やり返す。貴公らが影で世界を操るなら、私は光の下で、その汚れた帳簿をすべて暴いてやる」
「一万倍返しだ。貴公らの築き上げた『姿なき帝国』は、今この瞬間から、瓦解を始めることになる」
ヨシュアは翻り、霧が立ち込める外の世界へと歩き出した。
背後で、暖炉の火が爆ぜる音だけが虚しく響いていた。
(……この戦いは、もはや東インド会社だけのものではない。この世界の『根源』を腐らせる、奴らとの決戦だ)




