黄金の算盤 ― 泥の海に刻む最初の帳簿
1839年、清国・広東。 重苦しく湿った空気が立ち込める海岸線に、一人の青年が立っていた。
ヨシュア・ゴールドシュミット。
欧州の金融界で「若き異端」と呼ばれた彼は、今、人類史に刻まれる巨大な「不正入札」の現場に立ち会っていた。
目の前では、没収された大量のアヘンが、巨大な穴の中で石灰と潮水に混ぜられ、泥濘へと姿を変えていく。その光景を見つめるヨシュアの横には、清国の全権大臣、林則徐がいた。
「ゴールドシュミット殿。この泥の海を見るがいい。これが、貴殿の同胞が『自由貿易』の名の下に我が国へ流し込んだ富の正体だ。民の魂を腐らせ、国を内側から食い潰す毒……これを利益と呼ぶことが、西欧の算盤なのか?」
林則徐の問いかけは、鋭利な刃となってヨシュアの胸を刺した。
ヨシュアは懐から、父の形見である銀の算盤を取り出した。
使い込まれた珠が、南海の鈍い陽光を反射して静かに光る。
「……いいえ、閣下。これは利益ではありません。未来を担保に入れ、他者の命を切り売りして得る『最悪の不良債権』です。一時の金貨は手に入っても、信頼という名の元本を棄損すれば、歴史の帳簿はいずれ必ず破綻する」
ヨシュアは一歩前へ出ると、自身の背後に控える英国商館の面々、そして沖合に浮かぶ東インド会社の軍艦を、軽蔑を込めて見据えた。
「私はこの銀の算盤にかけて誓いましょう。略奪で肥える古臭い金貸し共の時代は、今日、この泥の海と共に終わらせる。これからは、奪い合う力ではなく、**『信用の連鎖』**が世界を支配するのだ」
ヨシュアは、没収されたアヘンの箱の中から、まだ汚れのついていない木箱を一つ掴み上げると、それを全力で荒れ狂う海へと投げ捨てた。
「やられたら、やり返す。……アヘンでこの国の未来を奪おうとした罪。その報いを、あなたがたの『独占権の完全消滅』という形で、一文残らず清算していただくッ!!」
ヨシュアの咆哮が、広東の空を震わせた。
林則徐は驚きに目を見開き、そして静かに微笑んだ。
「……面白い。ならばゴールドシュミット殿、私と共に、この世で最も誠実な帳簿をつけてみないか。暴力ではなく、信義によって富が巡る、真の強国の記録を」
「望むところです。閣下、あなたのその覚悟、私がこの算盤で**『最高格付け』**へと導いてみせましょう」
ヨシュアは林則徐と固い握手を交わした。
それは、一人のユダヤ人銀行家と清国の高官が、歴史という名の巨大な赤字を、百年かけて黒字に塗り替えるための「最初の契約」であった。
ヨシュアの算盤が、パチリと乾いた音を立てて弾かれた。
それは、世界を縛り上げる「黄金の規律」が動き出した、運命の鼓動であった。
1839年、広東。
ヨシュア・ゴールドシュミットの「人生の帳簿」には、今、最初の一行が力強く書き込まれた。
――1839年、アヘンの煙を拒絶。
平和という名の資産、本日より積立開始。




