数字という名の羅針盤
農業改革の方針は決まった。だが、俺の計画には、決定的に足りないピースがあった。
それは、改革の成果を正確に記録し、分析するための「人材」だ。
俺は、ハンス村長に依頼した。
「村長。この村で一番、読み書きと計算が得意な者を探してください。男女は問いません」
ハンスは、しばらく腕を組んで唸っていたが、やがて、何かを思い出したように、ぽんと手を打った。
「…一人だけ、おります。ですが、あの子は…その…少し、訳ありでしてな…」
彼が歯切れ悪く紹介したのは、村の隅にある、小さな家にひっそりと暮らす一人の少女だった。
彼女の名は、リリア。
年の頃は、十六か、十七だろうか。亜麻色の髪を質素な紐で束ね、着古したワンピースを身に着けている。その瞳には、年の割に大人びた、聡明な光が宿っていたが、家の没落という過去が影を落としているのか、自信なさげに、少しうつむきがちに俺の前に立っていた。
聞けば、彼女の家は、祖父の代までは領都でも指折りの大商人だったという。だが、何者かの陰謀に巻き込まれて没落し、この辺境の村へ流れ着いたのだそうだ。
「リリアさん、でしたね」
俺は、彼女の才能を見極めるため、いくつかの質問を投げかけた。
「この村の人口は、今およそ百人。では、一日あたりに必要な麦の量はおよそどれくらいか、分かりますか?」
「え…」
突然の質問に、リリアは少し驚いた表情を見せたが、すぐに指を折りながら計算を始めた。
「…一人当たりの一日の消費量を、乾燥麦で二合と仮定すると…全体で、およそ二十貫(約75kg)ほどかと…」
「では、この村で一番大きなあの畑から、去年の収穫量だと、何日分の食料になりますか?」
「あの畑の面積と、去年の日照りによる収穫減を考慮すると…おそらく、三日分にも満たないかと存じます…」
即座に、そして驚くほど正確に返ってきた答え。
他の村人なら、誰一人として答えられなかったであろう質問に、彼女は淀みなく答えてみせた。その才能の片鱗に、俺は確信した。
この子だ。この子しかいない。
「リリアさん。あなたに、お願いしたい仕事があります」
俺は、彼女を代官の執務室に招き入れた。そして、一枚の綺麗な羊皮紙を、彼女の前に広げてみせる。
俺は、その中央に、羽根ペンで一本の線を引いた。
「リリアさん。これからあなたに、この世界の全てを、正しく記録する方法を教えます」
「…世界の、全て…?」
「ええ」と、俺は頷く。
俺は、線の左側に「資産(得たもの)」、右側に「負債・費用(失ったもの、使ったもの)」と書き記した。
「どんな出来事にも、必ず二つの側面があります。例えば、畑に種を蒔けば、『種』という資産は失いますが、同時に『未来の収穫』という、新たな資産を得るための『投資』になります。この帳簿は、その両面を、同時に記録するためのものなのです」
複式簿記。
前世では、商業の基本中の基本とされる記録方法だ。
リリアは最初、そのあまりに奇妙な概念が理解できず、ただ戸惑いの表情を浮かべていた。彼女が知っているのは、ただ収入と支出を、時系列に沿って羅列するだけの「お小遣い帳」のような記録方法だけだったからだ。
俺は、具体的な例を挙げて説明した。
「では、今日の畑作業を、この方法で記録してみましょう」
俺は、羊皮紙にこう書き記した。
(費用)種籾 10袋を使用 | (資産)畑に蒔かれた種 10袋分の価値
(費用)5人の労働力を投入 | (資産)耕された畑 5区画分の価値
その記録を見た瞬間、リリアの聡明な瞳が、大きく、大きく見開かれた。
彼女は、まるで雷に打たれたかのようにその場に立ち尽くす。
そして、震える声で呟いた。
「…すごい…」
「え?」
「すごいです、ケイ様…! これなら…ただ何を使ったか、だけでなく、その結果、何の価値が、どこへ移動したのか、その流れが、一目でわかります…!」
彼女は、気づいたのだ。
これが単なる記録術ではないことに。
これは世界の富の流れそのものを、神の視点から「見える化」するための、強力無比な分析ツール(羅針盤)であることに。
彼女の脳裏に、優しかった祖父の言葉が、鮮やかに蘇る。
『いいかいリリア、商売で一番大事なのは『勘定』だ。数字は、決して嘘をつかない。数字の流れを制する者が、富の流れを制するんだよ』
祖父が追い求めていた、理想の商売の形。
それが今、目の前のこの一枚の羊皮紙の上で、完璧な形で実現されている。
彼女は、戦慄した。
「これがあれば…これさえあれば、祖父を陥れた、あの商人たちの、不正な金の流れだって、きっと暴くことができる…!」
彼女の瞳に宿っていた、諦めの影が、すっと消える。
代わりに灯ったのは、力強い、燃えるような意志の光だった。
うつむきがちだった彼女は、初めて、その顔をまっすぐに上げて、俺を見つめた。
「ケイ様! どうか、私にこのお仕事をさせてください! この『魔法』を、私に、お教えください!」
その瞬間、彼女はケイ・ヴァイフ・ジノミヤにとって、最初の、そして最も有能な「知識の理解者」であり、かけがえのない「ビジネスパートナー」となった。
俺もまた、彼女の情熱と才能に、心からの信頼を寄せずにはいられなかった。
その日から、リリアは、まるで水を得た魚のように働き始めた。
彼女は、村の全ての畑に番号を振り、どの畑で、誰が、いつ、どんな作業をしたか。どれだけの種を蒔き、どれだけの肥料(家畜の糞など)を使ったか。その全てを、俺が教えた帳簿に、正確に、そして美しく記録していく。
彼女の「数字」の力は、すぐに村に変化をもたらした。
ある農夫が「どうも、俺の畑は日当たりが悪いせいで、収穫が少ないようだ」と不平を漏らせば、リリアは帳簿をすっと差し出す。
「いいえ。記録によれば、あなたの畑は、他の畑に比べて、水やりの回数が2割少ないのが原因です。日照時間は、むしろ平均以上ですよ」
データという、誰もが否定できない事実を突きつけられ、農夫はぐうの音も出せずに引き下がるしかなかった。
ある作業に、思った以上の労働力がかかっていることが判明し、工程が見直され、村全体の労働効率が向上した。
村人たちは、自分たちの働きが、全て「数字」として公正に記録され、評価されることを知る。それは、時に厳しく、しかし、ごまかしのきかない公平なシステムだった。結果として、村人たちの労働意欲は、目に見えて向上していった。
エリアーナは、そんなリリアの姿を、少し複雑な思いで見つめていた。
ケイ様の言葉を、ただ心で信じ、その奇跡に驚くことしかできない自分。
それに比べて、リリアは、ケイ様の知識を頭で理解し、それを自らの武器として、現実に変化をもたらしている。
自分にはない才能を持つリリアに対し、エリアーナは、かすかな嫉妬と、そして焦りのような感情を、覚え始めていた。
執務室で、リリアが整理した完璧な報告書に目を通しながら、俺は満足げに頷いていた。
(素晴らしい。これなら、正確な効果測定ができる。PDCAサイクルが、ようやく回り始めるぞ)
俺の視線は、帳簿に記された、未来の計画の項目に留まる。
『用水路建設費(予定)』
(さて、と。記録管理の次は、インフラ整備だ)
俺は、ペンを置き、窓の外を見つめた。
(そのためには、この村で一番の、あの頑固な専門家を、口説き落とす必要があるんだが…)
俺の新たな、そして少しばかり厄介な交渉が、始まろうとしていた。




