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無能と追放された俺の「常識」、どうやらこの世界では神の叡智らしい ~定時で帰りたいのに辺境再建から始まる国家再生計画(プロジェクト)~  作者: ヲワ・おわり
第2章:大地と数字の改革

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次なる課題

衛生改善プロジェクトが軌道に乗ってから、数週間。

俺は、ついに念願だったスローライフの入り口に立っていた。


「――よし、来た!」


竿先に伝わる、小気味良い引き。軽く合わせると、銀色に輝く魚が水面を跳ねた。

テュロス村の近くを流れる川は、水がきれいで魚影も濃い。まさに、釣りの穴場パラダイスだった。


ようやく手に入れた「定時退-勤後の穏やかな時間」。

前世では、月が昇るまで終わらない残業と、休日出勤の山だった。それに比べれば、ここは天国だ。

「これだよ、これ。俺が求めていたのは、こういう穏やかな日常なんだ…」

俺は、釣り上げた魚を魚籠に入れ、心から満ち足りた表情で空を仰いだ。


その様子を、茂みの陰から、数人の村人たちが畏敬の念のこもった眼差しで見守っていることなど、俺は知る由もなかった。

「見たか? 賢者様が、また川の精霊と対話しておられるぞ…」

「いや、あれは未来の雨量を占っておられるのだ。きっと、我々のために…」

「魚を釣ることで、この土地の水脈そのものを活性化させておられるのだと、うちの爺様が言っていた…」

俺の何気ない趣味の行動が、村人たちによって、ことごとく神秘的で壮大な意味付けをされているとは、夢にも思わずに。


護衛として、少し離れた場所に控えているエリアーナでさえ、真剣な表情で俺の釣り姿を見つめている。

(一見、ただ釣りを楽しんでおられるように見えるが、これはきっと何かの儀式…あるいは、この平穏な時間すら、次なる大計画のための、深遠なる思索の時間なのだろう。私のような凡人には、計り知ることのできない何かを…)

彼女の勘違いも、もはや末期症状と言えた。


そんな、穏やかで、少しだけズレた時間が、永遠に続けばよかったのだが。

現実は、そう甘くはなかった。


その日の夕方。釣りから戻り、上機嫌で代官の館の扉を開けた俺は、そこで待っていた人物を見て、眉をひそめた。

村長のハンスが、深刻な、そしてひどく申し訳なさそうな顔で、入り口に立っていたのだ。その手には、中身がほとんど入っていない、みすぼらしい麻袋が一つだけ握られている。


「賢者様…」

ハンスは、俺の姿を見るなり、その場に深く頭を下げた。

「貴方様が与えてくださった、この平穏な日々を邪魔するようで、大変心苦しいのですが…」

彼は、持っていた麻袋を俺の前に広げて見せた。中に入っていたのは、わずかばかりの黒ずんで痩せた麦だけだった。


「これが、村の食糧庫に残っていた、最後の備蓄にございます」


その言葉に、俺の表情から穏やかさが消えた。

ハンスは、絞り出すような声で続けた。

疫病で多くの働き手を失ったこと。長年、土地が痩せ細り、まともな収穫ができていないこと。そして、このままでは、冬を越せずに村人の半数以上が餓死してしまうだろう、ということ。


「病で死ぬか、飢えで死ぬか…。賢者様、我々は、ただ死に方が変わるだけなのかもしれません…」


村は、疫病という「急性疾患」は治った。

だが、その奥深くは、「貧困」という名の、より根源的で重い「慢性疾患」に、静かに蝕まれていたのだ。


ハンスの悲痛な訴えに、俺の脳裏に、前世の記憶がフラッシュバックする。

予算が足りず、十分なインフラ整備ができずに、ただ衰退していくのを待つだけだった過疎地域の住民たちの、諦めに満ちた顔。

そして、「安定した生活基盤の確立こそが、行政の最優先事項である」という、骨の髄まで染み付いた、公務員としての理念。


(スローライフ? 定時退勤?)

(笑わせるな)

(それらは全て、最低限の生存基盤インフラがあってこその話だ)

(住民が餓死するかもしれないという状況で、自分だけがのうのうと釣りなどしていて、本当に『平穏』だと言えるのか?)


俺の思考は、個人の平穏の追求から、コミュニティ全体の生存基盤の再構築へと、瞬時に切り替わっていた。

俺は、絶望に俯くハンスの肩に、力強く手を置いた。


「村長、話は分かりました」

その声には、先ほどまでの暢気な響きは、もはや欠片もなかった。

「それは、もはや神頼みで解決する問題ではありません。人間の手で、知識とシステムで、解決すべき課題です」


俺の言葉に、ハンスは驚きと、そしてかすかな希望の入り混じった表情で、ゆっくりと顔を上げた。


俺は即座に行動を開始した。

エリアーナを呼びつけ、澱みなく指示を出す。

「エリアーナさん。村の全ての畑の面積、昨年の収穫量、そして現在の正確な備蓄量を調査し、報告書にまとめてください。書式は…こちらで指定します」


騎士である彼女の調査は、迅速かつ正確だった。しかし、提出された報告書は、ただ事実(数字)が羅列されているだけで、状況を分析するには不向きなものだった。

俺は、その報告書を受け取り、エリアーナを労う。

「ありがとうございます。正確な情報です。…ですが、欲を言えば、もう少しこれらの情報を整理して、『見える化』できると、もっと問題点が分かりやすくなるのですが…」


俺が何気なく呟いたその一言が、この村に、そして俺の運命に、新たな出会いをもたらすことになる。


俺は、窓の外に広がる、痩せて元気のない畑を見つめた。

その目は、もはや釣り人のものではない。

大規模な農業改革プロジェクトに挑む、一人の地方公務員の目に、完全に戻っていた。


「さて、まずは現状分析と、土壌調査から始めるとしますか」


俺の新たな戦いが、静かに幕を開けた。

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