英雄の誕生と新たな日常
大評定の後、罪人たちへの審判は、速やかに下された。
ロデリック辺境伯は、国家反逆罪により爵位剥奪の上、王国の最も深い地下牢へ終身幽閉。その広大な領地は、全て王家直轄領へと編入された。
そして、俺の兄カイル。
彼にもまた、当然のように死罪が確定した。
だが判決が下される直前、俺は国王に、ただ一つだけ、嘆願をした。
「…せめてもの、情けを」と。
国王は、俺のその短い言葉の裏にある、全ての葛藤を察してくれたようだった。
カイルは、その魔力を特殊な魔道具によって完全に封じられた上で、二度と俗世に戻れぬよう、辺境の修道院へ永久に幽閉されるという判決に、減刑された。
その日の夜。俺は、全ての爵位を返上し、隠居を決めた父の元を、最後に訪れた。
父は、すっかり年老いて見えた。彼は俺の前に、静かに、そして深く頭を下げた。
「…お前は、この家の、誇りだ。わしが、守れなかったものを、お前は守ってくれた…」
それは俺が生まれて初めて、父から認められた、感謝の言葉だった。
だが、俺たちの間にあった、あまりにも深い溝が、その一言で完全に埋まることはなかった。
俺たちは、ただ静かに、そして確かに、親子としての縁に、訣別を告げた。
◇
数日後。俺は国王の私室に、一人で呼ばれていた。
国王アルトリウス三世は、これまでの冷徹な支配者の顔ではなく、どこか穏やかな、一人の人間としての顔で、俺に語りかけた。
「…見事であった、ケイ・ヴァイフ・ジノミヤ。そなたは、この国を二度救った。一度は、荒れ狂う大河から。そしてもう一度は、人の心に巣食う、内なる敵から」
そして、彼は言った。
「望むものを、言うが良い。金か? 広大な領地か? あるいは、公爵という、この国で最高の爵位か? そなたの、このあまりにも大きな功績に値するものであれば、余は何でも与えよう」
最大の褒美。最高の栄誉。
その言葉に俺の心は、一瞬だけ本気で揺らいだ。
(…定年までの給料を、金塊で前払いしてもらって、あとは南の島でのんびり釣りをしながら暮らす…!)
俺は、その究極のスローライフを実現するための言葉を、喉の奥まで出かかった。
だが、俺はそれを、ぐっとこらえた。
そして代わりに、これまでの、長くてそしてあまりにも面倒くさかった戦いを経て、俺がたどり着いた、一つの偽らざる本音を、口にした。
「…陛下。望みは、ただ、一つだけでございます」
「ほう?」
「どうか、これ以上、私に大きな仕事を、任せないでください。私はただ、どこかの片隅で、誰にも注目されず、静かに、そして毎日きちんと、定時で帰れるような、そんな仕事がしたいのです」
俺の、あまりにも予想外で、そしてスケールの小さい、切実な願い。
それを聞いた国王は、最初、きょとんとした顔で固まっていたが。
やがて、その肩を、くつくつと震わせ始めた。
そして、ついに堪えきれなくなったかのように、腹を抱えて、大声で笑い出した。
「――ククク…ッ! あっはははははははっ!!」
「面白い! そなたは、本当に、最後まで、この余の予想を、遥かに超えてくる男よ!」
◇
そして、数週間後。
国王は、俺の願いを、彼なりの解釈で聞き届けてくれた。
俺を全ての最前線の役職から外し、「国家再建最高顧問」という、名目上は「陛下に助言をするだけ」の、名誉職的な閑職を与えてくれたのだ。
その執務室は、王城の中でも、最も眺めの良い、日当たりのいい場所に設けられた。
――だが、その実態は。
王国中の、あらゆる部署が匙を投げた、最も困難で最も厄介な問題が、最終的に全て持ち込まれる「最後の駆け込み寺」だった。
俺の、新たな日常が始まった。
机の上には、もはや山ではなく、巨大な「山脈」と化した、決裁待ちの書類が、そびえ立っている。
「旱魃に苦しむ南部領への、大規模灌漑計画の草案」
「帝国との、新たな平和友好条約に関する、条文の最終チェック」
「王立アカデミー設立に関する、義務教育制度改革案」
だが俺は、もはや一人ではなかった。
俺の巨大な執務机の周りには、いつの間にか、それぞれの専門家となった、頼もしい仲間たちの机が、並べられていた。
「ケイ様、この宮廷舞踏会の予算、無駄です。全額削減します。この予算があれば、南部に井戸が三つは掘れますので」
財務最高顧問となったリリアが、国家予算案を、青い顔をする大蔵卿の前で、バッサバッサと斬り捨てている。
「最高顧問、あなたが提案された『労働基準監督法』だが、この『週に一度の休日を義務付ける』という条文は、あまりに革新的すぎる。もう少し、現実的な落としどころを探るべきだ」
法務最高顧問となったダリウスが、新たな法律の草案を手に、俺に真剣な議論を吹っかけてくる。
「旦那! 見てくれよ! あんたが言ってた、『蒸気の力』で動く、鉄の馬車の試作品が、もうすぐできそうだぜ!」
王立技術院の院長となったバルガスが、目を輝かせながら、とんでもない発明品の設計図を、俺の机に広げる。
そして、その全てのカオスを。
王室騎士団の副団長兼俺の筆頭秘書官となったエリアーナが、完璧なスケジュール管理と優雅な笑顔で、交通整理している。
「ケイ様、お茶が入りました。30分後には、先日視察された、孤児院の子供たちへの『特別授業』のお時間ですよ」
遠くで、定時退勤を告げる、無慈悲な鐘の音が鳴り響く。
だが、この部屋の明かりが消える気配は、全くない。
俺は、窓の外に広がる、美しい王都の夜景と、机の上の、終わりの見えない書類の山脈を、見比べた。
そして、天を仰いで、深いため息をつく。
(俺の望みは、平穏無事なスローライフ。毎日きちんと、定時で帰ること。…そのはずだったんだけどなあ…)
だがその表情には、かつてのような絶望も、諦観もなかった。
むしろ、その口元には、困ったような、それでいて、どうしようもなく誇らしいような、穏やかな笑みが、浮かんでいた。
俺は、山積みの書類の一番上にあった、『全国統一義務教育制度の導入に関する基本草案』と書かれた羊皮紙を、手に取った。
そしてお気に入りの羽ペンを、インク壺に浸す。
(まあ…もう少しだけ)
(この、どうしようもなく、やりがいのある残業を、続けてみるのも、悪くないかもしれないな)
俺の静かで平穏な日々は、おそらくもう、二度と戻ってはこないだろう。
だがその代わりに手に入れた、この騒がしくも、かけがえのない、新たな日常。
俺はその価値を、心の底から、噛みしめていた。
俺たちの、そしてこの国の、未来を描くための、長い長い一日は。
まだ、始まったばかりだった。
(完)




