北方の暗雲
王城の評定の間は、俺がこれまで経験したことのない、鉄と血の匂いがするような、張り詰めた空気に支配されていた。
普段の華やかな謁見の間とは違う。壁には巨大な軍事地図が掲げられ、歴戦の将軍たちが、その顔に深い渓谷のような皺を刻み、腕を組んで黙り込んでいる。
そしてその中に、ただ一人。
場違いな文官の服を着た俺が、ぽつんと立っていた。
「なぜ、こんな神聖な軍議の場に、あの『お利口さん』が呼ばれているのだ…?」
「陛下も、何を考えておられるのか…」
将軍たちから向けられる、あからさまに訝しげな視線が、痛いほど突き刺さる。
いや、俺が一番そう思っている。なぜ俺がここにいるんだ。
重い沈黙を破ったのは、宰相が読み上げる、北方国境の司令官からの魔導通信による報告だった。
その声は、震えていた。
「――グライゼン帝国軍、国境線に集結中。その数、およそ三万。最新鋭の攻城兵器、そして帝国が誇る重装騎馬隊も確認。…繰り返す。これは、もはや演習の規模にあらず。侵攻の意図、明白なり!」
評定の間に、どよめきが走る。
宰相は、壁に貼られた帝国の地図を、指揮棒で叩くように指し示した。
「グライゼン帝国は、ご存知の通り寒冷で痩せた土地が多く、常に飢饉の瀬戸際にある。故にその国民性は、極めて尚武。我が国の、この豊かな穀倉地帯を、喉から手が出るほど欲している」
「そして、彼らが誇る『黒鋼騎士団』は、大陸最強と謳われる精鋭部隊。正面から戦えば、我が国の倍の兵力をもってしても、勝利は覚束ないとさえ言われておりますな」
だが、その絶望的な報告に、猛将として知られる将軍の一人が、拳でテーブルを叩きつけた。
「何を恐れることがあるか! 帝国が攻めてくるというのなら、その鼻っ柱を、こちらからへし折ってくれるまでよ!」
「そうだ! 我らがジルバーナ王国騎士の誇りを、あの蛮族どもに見せつけてくれるわ!」
血気盛んな将軍たちが、口々に開戦を主張し、評定の間は、一気に主戦論の熱気に包まれた。
その熱気に、冷水を浴びせたのもまた、老獪な宰相だった。
彼は、ふう、と一つため息をつくと、呆れたような、そして試すような目で、将軍たちを見回した。
「ほう、実に勇ましいことだ。では、この老いぼれから、勇猛果敢な将軍閣下方に、一つだけ質問させてもらおうかの」
「…戦うのは、良い」
「だがどうやって、王都から遥か北の国境要塞まで、数万の兵士が数ヶ月間戦い続けるための膨大な食料と武具を、一日も滞りなく届けるおつもりかな?」
宰相のその静かな問い。
それはこの国の、最も触れてはならない、致命的な弱点を、白日の下に晒すものだった。
宰相は、王国の地図を指し示す。王都から国境要塞まで続く道は、か細い一本の線でしかない。
「この道は、先日の『大いなる嘆き』…あの豪雨で、半分は泥沼と化している」
「道中にある橋は、老朽化が進んでおり、大規模な補給部隊の重量には、とても耐えられまい」
「そもそも」と、宰相は言った。
「数万の兵を動かすのに、どれだけのパンと矢と、そしてそれを運ぶための荷馬車が必要か。正確に計算したことのある者は、この中に、一人でもおるのかな?」
あれほど勇ましかった将軍たちが、顔を見合わせ、誰一人として、答えることができない。
彼らは、戦場で兵を率いることの専門家ではあっても、その兵士たちの胃袋を満たす、「兵站」という、地味で、しかし最も重要な学問の専門家ではなかったのだ。
王国の最大の弱点が、華々しい騎士団ではなく、それを支える、あまりにも脆弱な一本の道であることを。
その場にいた誰もが、痛感させられていた。
議論が行き詰まり、評定の間に、敗北を予感させるような、重い沈黙が流れる。
全員が、なすすべなく俯く中。
玉座に座す国王アルトリウス三世だけが、静かに、そしてまっすぐに、俺のことを見つめていた。
「――ケイ・ヴァイフ・ジノミヤ」
名を呼ばれ、俺は、はっと顔を上げた。
将軍たちの期待と侮蔑と、そしてわずかな好奇が入り混じった視線が、一斉に俺一人へと突き刺さる。
「そなたは、氾濫する川の流れを読み、人の流れを整え、カネの流れさえも、新たに作り出したと聞く」
国王の声は、静かだが、有無を言わせぬ響きを持っていた。
「ならば、問おう」
「この死にかかっている『モノの流れ』…。すなわち、我が国の生命線そのものである、この補給路を。そなたの、あの不可思議な『理』で繋ぎ、そして維持することは、可能か?」
それは、勅命だった。
事実上の、「三ヶ月以内に、王都から国境までの、あの崩壊寸前の劣悪な街道を、数万の軍隊が、問題なく通行可能な軍事補給路として、完全に整備せよ」という。
土木工学の専門家が聞いても、匙を投げるであろう、あまりにも巨大で、そして絶望的な、無茶ぶりだった。
(…冗談だろ)
俺の喉が、ひゅっと鳴った。
(土木課の仕事と、軍の兵站は、全くの別物だぞ…!? スケールが、あまりにも違いすぎる!)
(無理だ、絶対に無理だ、こんなの!)
俺の心の全てが、全力で「NO」と叫んでいた。
だが俺は、断れなかった。
国王の、この国を本気で憂う、真剣な眼差し。
将軍たちの、最後の希望を託すような視線。
そして何より、この国が、今まさに滅びるかどうかの、その瀬戸際に立たされているという、紛れもない事実。
俺は一度、固く固く目を閉じた。
そして、覚悟を決めて、顔を上げる。
俺の表情は、いつもの、何も考えていないようで、その実全てを計算している、あのポーカーフェイスに戻っていた。
「――御意」
俺は、静かに、しかしはっきりと答えた。
「ただし、条件が、いくつかございます」
評定の間に、緊張が走る。
「この事業の遂行にあたり、予算、人員、そして関連する全ての部署に対する指揮権…。その全権を、この私に、完全に委任していただくことを、お約束いただけますでしょうか」
絶望的な任務を前に、臆することなく、逆に、この国で最大級の権限を要求してみせた、俺のその胆力。
国王は、満足げに、そして面白そうに、その口元に笑みを浮かべた。
将軍たちは、ただただ、驚愕の表情で、俺を見つめている。
内政改革の専門家だったはずの俺が、今この瞬間。
国家の防衛という、最も重要で、そして最も困難なプロジェクトの、総責任者へと、変貌を遂げた。
俺の、新たな、そしておそらくは、最も過酷な戦いが。
静かに、そして確かに、その幕を開けたのだった。




