見えざる迷宮(ラビリンス)
国王から勅命を受けた俺は、早速行動を開始した。
俺に与えられた王都の執務室は、無駄に広いだけで殺風景だったが、そんなことはどうでもいい。俺は壁一面に、入手可能な限り最も精密な王都の地図を貼り付け、壮大かつ、俺に言わせれば「ごく当たり前」の計画を立案した。
計画1:清潔な水を供給する上水道と、汚水を市外へ排出する下水道を、王都全域に敷設する。
計画2:ゴミの分別と定期収集を制度化し、郊外に大規模な焼却処理施設を建設する。
計画3:食品の衛生管理や、伝染病発生時の隔離措置などを定めた、「公衆衛生法」を制定する。
リリアは、その計画の合理性に目を輝かせた。
「素晴らしい計画です、ケイ様! これが実現すれば、王都の平均寿命は、少なくとも10年は延びるでしょう!」
そう、実現すれば、の話だが。
俺たちは、リリアが作成した完璧な計画書を手に、王城内の各省庁へ、協力要請に向かった。
そして、そこで俺たちは、前世でさんざん味わった、あの悪夢のような現実と再び対峙することになる。
最初に訪れたのは、「王宮水路管理局」。
恰幅のいい、人の良さそうな局長は、俺たちの計画書に感心したように頷いた。
「ほほう、上水道ですか! これは素晴らしい! ですが最高顧問殿、誠に申し訳ないのですが、下水は我々の管轄外でしてな。そちらは、あちらの『都市浄化局』へ、どうぞ」
次に訪れた「都市浄化局」。
神経質そうな局長は、眉間に皺を寄せながら言った。
「下水ねえ…。まあ、我々の仕事ではありますが…。しかし、ゴミ処理はまた全く別の話ですな。それは、広場の向かいにある『環境整備院』の仕事ですよ」
そして「環境整備院」。
やる気のなさそうな院長は、欠伸をしながらこう言った。
「ゴミ収集は結構ですがねえ、貴族街のゴミは、我々ではとても手が出せません。あれは、偉いお歴々の『宮内省』の管轄ですので」
宮内省、大蔵省、建設省…。
俺たちは、一日がかりで、巨大な迷宮の中をたらい回しにされた。
全ての部署が、自らの縄張りを主張し、責任を押し付け合い、そして誰も、計画全体に責任を持とうとしない。
典型的な縦割り行政の弊害。まさに、見えざる迷宮だった。
「――貴方たちには、この国を、首都を、良くしようという気概はないのですかっ!」
ついに我慢の限界に達したエリアーナが、憤慨して叫ぶ。
だが、役人たちは「まあまあ、お嬢さんそう熱くならずに」と、柳に風と受け流すだけだった。
「行政が動かないなら、直接、有力者を動かすまでだ」
俺たちは次に、影響力のある大貴族たちへの、直接交渉を試みた。
だが、そこは、行政の迷宮よりも、さらに厄介な「既得権益の地雷原」だった。
とある老公爵の、趣味の悪いほど豪華な屋敷。
彼は、俺が提示した下水道の計画図を一瞥すると、扇子で優雅に口元を隠し、こう言った。
「ほっほっほ。我が家のこの美しい庭園は、初代国王陛下から直々に賜った、神聖な土地。その地下を、平民どもが垂れ流した汚物が通るなど、断じて許すわけにはまいりませんなあ」
また別の、有力な女侯爵のサロン。
彼女は、最高級のティーカップを、音も立てずにソーサーに戻すと、冷ややかに微笑んだ。
「ゴミ処理施設ですって? そのような、不潔で臭気の漂う施設を、我が屋敷の窓から見える場所に作られては、この美しい王都の景観が、損なわれてしまいますわ」
彼らの反対理由は、体面や伝統だけではない。
「なぜ、俺の土地ではなくあいつの土地に、国の金が投入されるのだ」
「改革によって、自分たちの影響力が低下するのは、虫が好かん」
そういった、どこまでも自己中心的で、矮小な利権争いが、全ての根底に渦巻いていた。
そして、その混沌に、さらなる追い打ちをかける者がいた。
俺の実の兄、カイルだ。
俺の計画が、貴族たちの抵抗にあって難航しているという噂を聞きつけた彼は、ここぞとばかりに、陰湿な妨害工作を開始したのだ。
俺たちが平民街で下水道のルートを測量調査していると、どこからともなく、子供の投げたものにしては、やけに正確な軌道を描く石が、俺の頭すれすれを飛んでくる。
「あの代官は、疫病神だぞ! あいつが来てから、井戸の水が、なんだかまずくなった気がするぞ!」
そんな根も葉もないデマが井戸端で囁かれ、いつの間にか街全体の噂として広がっていく。
俺たちに協力しようとしてくれた、平民街の代表者が、その日の夜道で何者かに脅迫され、翌日には青い顔で協力を辞退してくる。
テュロス村では、民衆を味方につけることで、俺は改革を進めてきた。
だが王都の平民たちは、長年の貴族への不信感から疑り深く、そしてデマにあまりにも踊らされやすかった。
俺は初めて、その民衆からも敵意の視線を向けられるという、本当の意味での完全な孤立を味わった。
◇
その夜。
執務室に戻った俺は、壁の巨大な、しかし今や実現不可能にしか見えない計画図を前に、初めて本格的な無力感と、挫折感を味わっていた。
(ダメだ…。この街は、複雑すぎる…)
(一つの問題を解決しようとすると、十の利権と百の慣習が、まるで粘着質な蜘蛛の巣のように、絡みついてくる)
(テュロス村とは、ルールがあまりにも違いすぎる…!)
「ケイ様、お顔の色が…。今は、お休みください」
エリアーナが、俺の心身を、本気で案じている。
「…これほどの抵抗は、私の計算を遥かに超えていました。申し訳ありません、ケイ様…」
リリアでさえ、彼女の絶対的な武器である「数字」が、この非合理な壁の前では無力であることを悟り、うつむいていた。
俺は、執務椅子に、深く深く身を沈めた。
そして、目を閉じる。
数分間の重い沈黙。
やがて俺は、ゆっくりと目を開いた。
その目には、もはや絶望の色はなかった。
代わりに宿っていたのは、新たな、そしてより危険な獲物を見つけた、狩人のような冷たい闘志の光だった。
「…分かりました」
俺は、静かに立ち上がった。
「正面から、この迷宮を突破するのが無理だというのなら…やり方を、変えるまでです」
俺は、壁の地図の一点。
この王都で、最も巨大で最も堅固で、そして最も権威のある場所。
――王城そのものを、人差し指で、力強く指し示した。
「一番硬くて、そして、一番単純な壁から、穴を開ける」
巨大な壁を前に、一度は絶望しかけた俺の、静かな、しかし確実な反撃の狼煙が上がった瞬間だった。




